【愛と哀しみの埼玉の歴史】県民のリテールバンクへー埼玉りそな銀行20周年<上>

さいたま市に本店を置き、預金・貸出金で埼玉県内トップシェアを誇る埼玉りそな銀行(さいたま市浦和区常盤、福岡聡社長)が、3/3で営業開始から20周年を迎える。

金融自由化やバブル崩壊の中で生まれ、リーマン・ショックなど多数の困難もありながらも「リテールバンク」を目指し挑戦してきた同行やその前身行の歩みを振り返る。

「サイギン」からあさひへ

ルーツにあの偉人も関係

同行の前身となるのは、第二次世界大戦中の1943年に発足した埼玉銀行。戦時体制の一環として、旧国立銀行の八十五銀行と武州銀行、忍商業銀行や飯能銀行が合併して発足した。その後も忍貯金銀行など県内に本拠にしていた銀行を随時吸収し、地方銀行として拡大していった。

なお、八十五銀行と武州銀行の発足には深谷市出身で近代経済の父とされる渋沢栄一が大きく関わっている。また、八十五銀行旧本店は同行川越支店蔵の街出張所として、武州銀行旧川越支店は川越商工会議所(いずれも川越市幸町)として、忍貯金銀行本店は武蔵野銀行行田支店(行田市行田)として、いずれも建築物が現存している。

終戦後の高度経済成長期に県内もベッドタウンとして人口が急増し大きく発展した。金融市場が膨らむ中で埼玉銀行は1969年に地方銀行から都市銀行へ転換。本店は浦和市(当時)であったが、地域優先の営業方針を経営方針として掲げた。

「サイギン」の愛称のもと県内での営業拠点展開だけでなく、京橋支店を東京営業部に格上げするとともに、多摩地区や千葉県や神奈川県など首都圏各地や札幌・愛知・大阪と全国展開に乗り出した。県内自治体の多数で指定金融機関に登録されている。

1971年には総預金残高が1兆円に達した。また、1989年にはロンドン証券取引所にも上場を果たしている。

金融自由化の中で規模拡大

高度経済成長の中で発展を遂げていた埼玉銀行は、個人向けの預金だけでなく中小・中堅企業への貸出に強みを持っていた。

しかし1970年代後半から、それまで護送船団方式が採られていた金融業界に自由化の波が押し寄せてきた。⾦利の⾃由化やMMC(市場⾦利連動型預⾦)といった金融商品の開発が見られるようになり、国際化を進める声も出てきた。企業向けの貸出でも、⼤企業がコマーシャルペーパーなど銀行に寄らない手段で資金調達を行う動きも出てきて、中小・中堅企業分野への他行参入も激しくなってきた。こうした中でバブル期1989年には金利引き上げがなされ、資金調達コストが嵩み銀行が受け取る利ざやも大きく減った。また、都市銀行下位にあった埼玉銀行としても仕手筋集団「光進」への不正融資を行うなど、営業上の不安もあった。

こうした中で、埼玉銀行も他の銀行と合併して規模拡大や基盤整備を検討。そして、1985年からオンラインシステムの開発を行ってきた都市銀行下位の協和銀行に接触。協和銀行側も同じく個人向け預金や中小・中堅企業への貸出に強みがあった。システム投資費用の軽減や規模拡大による効率化などを図って、1990年11月に合併協議書に調印。1991年4月に協和埼玉銀行として両行は合併、店舗数は400店となり都市銀行2位に、首都圏では303店と都市銀行首位となった。

1992年には、水平線から太陽が昇る行章から着想を得て商号を「あさひ銀行」へ変更した。なお、あさひ銀行の本社は東京・大手町に置かれ、浦和市の旧埼玉銀行本店には埼玉本部が置かれた。

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金融再編取り残さるも

破談になった銀行統合

バブル崩壊後の1990年代、過剰融資を由来とする不良債権が社会的な問題となった。1997年には北海道拓殖銀行や山一證券が破綻するなど、銀行を取り巻く環境は過去最悪の状況となっていた。

一方で1996年には、この状況を打開すべく橋本龍太郎内閣のもとで「金融ビッグバン」が推進された。「フリー」「フェア」「グローバル」の三原則の下、参入促進や手数料自由化など国際化の中で競争力ある金融市場を目指した各種取組が推奨された。1998年には独占禁止法が改正され、持株会社設立が可能になった。

こうした中で規模の経済性や多角化などを進めるべく、各銀行による統合へ向けた動きが活発となり金融再編の波が吹き荒れた。

あさひ銀行としても収益性向上や規模拡大へ向けて他行との統合を検討し始め、1998年には名古屋市に本拠を置いた東海銀行との経営統合・持株会社設立を発表した。2000年には大阪市を本拠とする三和銀行も合流したが、三和銀行が持株会社設立でなく合併を希望したことで同統合は白紙となった。その後、東海銀行と三和銀行はUFJ銀行設立へと進んだ。

生き残りかけ統合交渉へ

あさひ銀行も2001年には千葉銀行や横浜銀行へ統合交渉を持ちかけるが、いずれも破談となった。

それでも同年8月には、あさひ銀行信託部門の買収をかつて検討していて同じく金融再編に取り残されていた大阪本拠の大和銀行に統合交渉を持ちかけた。

大和銀行も大阪を拠点として合併や統合によらず地域密着経営を展開していたが、1995年に米国債取引の巨額損失を米当局へ未報告だったことが発覚。強気の与信姿勢で不良債権も多く、公的資金の注入を受けていた。そうした中で大和銀行も、元々根拠としていた地域以外にも進出し親密な地方銀行をグループに取り込む「スーパーリージョナルバンク」への転換を図っていたため、この統合交渉に乗った。

響き合う新時代の銀行誕生

こうして同年9月にあさひ銀行は大和銀行との経営統合を正式発表。同年12月に大和銀行は親密行の近畿大阪銀行・奈良銀行とともに金融持株会社大和銀ホールディングスを設立し、あさひ銀行は翌2002年3月に傘下となり、同年10月にこの持株会社はりそなホールディングスと名前を変えている。りそなはラテン語で「Resona=共鳴する、響きわたる」という意味で、顧客の声に耳を傾け共鳴し響き合いながら、揺るぎない絆を築いていこうという思いを込めた。

同年8月にはあさひ銀行から県内や一部の都内店舗を継承する銀行として、子会社に埼玉りそな銀行を設立。埼玉銀行以来、本社もさいたま市に置かれた。

その背景に県内におけるあさひ銀行の基盤維持などの思惑があったとされるが、翌2003年3月にかくして同行が営業を開始した。

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スタート直後の大ピンチ

新規に発足した同行は、住宅ローンなど個人向けのリテールバンク(小口取引)割合が高い一方不良債権比率が少ないため、発足当時でもその自己資本比率は7%台後半だったという。

一方であさひ銀行自体は大和銀行と合併してりそな銀行となり、同行に移行しなかった旧あさひ銀行店舗はりそな銀行として営業を開始した。しかし、同年4月にりそな銀行の監査法人が繰延税金資産の5年分組み入れを却下。3年分の組み入れしか認められず、りそな銀行の自己資本比率が銀行の国内基準4%を下回る2%台に転落する恐れがあった。そのため、翌5月には預金保険法に基づく公的資金注入を政府に要請。1兆9660億円の公的資金が注入され、りそな銀行は実質国有化された。同年8月には国とりそなホールディングスが株式交換をしたことで、同行含む傘下の銀行が国有化される事態となった。

こうした中で、発足間もない同行含む各行行員の賃金カットやリストラがりそなホールディングスの川田憲治社長から提唱されるなど、発足直後にして暗雲が立ち込めた。同行自体は優良行であったが、ホールディングスからの売却や独立も市井では取りざたされたほどだった。同年11月には就任直後の上田清司前県知事や当時の相川宗一さいたま市長らも同行の株式を取得する構想も掲げたが、諸事情から宙に浮いている。

こうした波乱の中で、地域に根ざした都市銀行たる同行の歩みが始まったのだった。

つづく

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