【愛と哀しみの埼玉の歴史】原点は「消費者第一」ー小川町発祥・しまむら70周年<1>

比企郡小川町発祥で総合衣料品小売店「ファッションセンターしまむら」などを手掛けるしまむら(さいたま市大宮区北袋町、鈴木誠代表取締役)が、5/7をもって70周年を迎える。

2022年2月期の連結売上高は5386億円と、アパレル業界においてはファーストリテイリングに次いで業界2位の規模となっている。

埼玉はもとより、日本を代表するアパレル企業に成長した同社の歩みを振り返る。

「小京都」呉服店の飽くなき挑戦

創業時から消費者主眼に

同社の前身は、昭和恐慌期の1931年に島村喜一氏が同町の本町通りで開いた島村呉服店。当時4軒あった地域の呉服店の中では最小規模であった。

他店が富裕層を主眼とした事業を展開していたのに対して、後発組の同店では一般消費者向けの商品を中心に展開。商品価格を抑えるために、主流だった掛け売りではなく現金での販売を採用。チラシ配布も積極的に行うなどして、地域の消費者の支持を集めていた。

こうした消費者第一の姿勢は現在でも同社に色濃く受け継がれており、創業当初から貫かれている点は特筆に値する。

戦間期を経て、1953年5月に喜一氏の息子の島村恒俊氏が同店を株式会社として法人化。株式会社による呉服店は当時としては珍しいが、事業拡大へ武蔵の「小京都」発の呉服店の挑戦が始まった。

苦手が生んだセルフサービス

法人化を果たした同店の店頭には「店内は道路の延長です。ご自由にご覧いただき、お気に召すものがございましたら、お買い上げください」と貼り紙があった。

これは恒俊氏直筆のものだった。高額商品を扱う呉服店というのは店員が客と話すことが重要であったが、元から人と話すのが苦手な同氏はそうした商売に抵抗を感じていた。それでも勉強会でセルフサービスの概念に触れると、「商品回転率を基準に品揃えを考えるべきである」という理論に基づき採用を決意。あまり店員が話しかけなくても商品が売れる自信もあり、顧客が買いたいと思った商品を気軽に手にとって買えればという思いで、1957年より周囲の反対を押し切ってセルフサービスを推進した。

衣料品や寝具と品揃えも広がる中、こうしたセルフサービスが顧客の好評を生んだ。

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チェーン店化への試金石ー東松山進出

長蛇の列でクレームも

セルフサービス採用で繁盛店の仕組み作りを体得した同氏は、海外のチェーンストア化を志向し店舗拡大を決意。新店舗開設へ向けて動いていたが、会計事務所の紹介で東松山駅徒歩7分の市役所通りと交差する50坪の土地を賃貸借契約。店舗設計や工事を経て、1961年5月に同社2店舗目となる東松山店として開店し、営業の主体を同店に移した。

東京のベッドタウンとして発展し同町の倍近い人口のある同市に出店したことで、開店当初はチラシを見て多くの消費者が来店した。ただ、所得水準から価格帯の高い商品主体の品揃えをしていたため、初年度は売上が振るわなかったという。

それでも翌年には同町の一号店と同じ低価格商品を扱ったところ、売り出しの日には長蛇の列。「行列で店の前がふさがっている」と近隣店舗からクレームが出るほどの盛況ぶりだった。

同店開設をきっかけに運営体制も仕入と販売とに分離、商品も集中仕入制とした。

若手大卒社員も大活躍

一部社員の離反などもあったが、大卒社員も入社しチェーンストア展開に向けた体制も整えられつつあった。

大阪万博が開催された1970年5月には、同市発祥のスーパーマーケット・マミーマートとの共同出費で東松山駅前に東松山ショッピングセンター(東松山市箭弓町)が開店。1階にマミーマート、2階に移転した東松山店、3階は当時流行していたボーリング場となった。本社機能も同所に移転している。そうした同店の店舗開発で中心的な役割を担ったのは、大卒入社から間もない若き社員たちだった。

同センターでは2002年の改装で同社グループが全フロア入居となったが、2011年3月をもって閉店。跡地には2011年秋に東松山駅前ファッションモールが開店し、引き続きファッションセンターしまむら東松山駅前店と同社系列のベビー用品店・バースデイ東松山駅前店が営業している。

自社でシステム化も

商号を株式会社しまむらに変更した1972年からは、自社独自の電算情報システムの構築にも着手。大卒入社組で元社長の藤原秀次郎氏が自らCOBOL言語の講習を受けるなど中心となり、1975年には独自の商品管理システムの運用を始めている。さらに1981年には商品管理をデータベース化した上で全店舗をオンラインで結び、POSシステムによる単品管理を展開。昨今はDXが叫ばれているが、業務効率化やローオペレーションに向けて早くからデジタル化に着手している点は特筆される。

多店舗展開に伴い配送についても合理化を図り、1975年からはチャーター契約による専用便運行を、1980年からは夜間配送を開始。夜間配送については運送業者からの反対もあったが、店舗での手待ち時間削減や早朝からのオペレーション標準化に向けて採用された。夜間配送と同時に川口市で同社直営の川口商品センターも稼働開始。搬送や仕分けといった倉庫内の作業は自動化され、省力化や高速処理を追求した。

現在でも同社には東北から九州まで国内10カ所、台湾に1カ所の商品センターがあり、省力化や配送の高速化に貢献している。

武蔵の「小京都」から始まった同社は、着実にチェーンストア展開へ歩みを進めていた。

つづく

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