【愛と哀しみの埼玉の歴史】21世紀の内陸都市ー20周年迎えたさいたま新都心 その1

今年2020年は2000年代の幕開けとなる2000年から20年の節目となる。

「ミレニアム」「2000年問題」など当時は話題になったが、こと埼玉においてはさいたま新都心の街開きの年でもあった。

さいたま市誕生・21世紀を目前にして誕生した同地区は、政府系機関の移転先および埼玉における経済・文化の発信拠点として街開き以来発展を続け、今日も発展途上にある。

同地区の整備経緯や特徴、建設にあたっての裏話や将来の姿などを紹介していく。

さいたま新都心とは

まずは同地区の概要を簡単に説明する。

同地区は東京の「新都心」となるべく開発された約47.4haに及ぶ業務地区。国や県、住宅・都市整備機構(現:都市再生機構)が事業主体として整備を進めてきた。計画された延床面積は約1,800,000㎡、就業人口は約57,000人。

現在ではさいたま市中央区新都心および大宮区吉敷町にまたがるが、さいたま市誕生前の街開き当時は大宮市・与野市・浦和市が入り組んでいた。

開発が進んだ地区には、官公庁の出先機関や商業オフィス、コクーンに代表される商業施設やさいたまスーパーアリーナ・けやきひろばといった文化・交流施設などが立地する。また交通機関としてJR宇都宮線などのさいたま新都心駅、地下に首都高速道路埼玉新都心線とその出入口が存在する。

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同地区にあった大宮操駅

地区自体は20年と歴史は浅いが、それより前にこの地はどのように使われていたのか。

この地では1984年まで大宮操駅が稼働していた。

操車場とは貨車の付け替えを行う施設で、約25haにも及ぶ広大な敷地を有していたことから国鉄三大操車場とも称されていたという。大宮工場と並んで、大宮を鉄道の街にした立役者といえよう。

もともと同駅は1927年に大宮駅の付帯設備として設立され、1961年に同駅が貨客分離を行なったことにより大宮操車場駅となった。

3面6線の貨物ホームを有しコンテナ貨物も取り扱う大規模な駅だったが、鉄道貨物輸送が衰退したことで1984年に操業停止。1986年に貨物取扱駅としても廃止され、もともと貨物ヤードだった広大な土地が空き地となった。

ちなみに貨物取扱駅としての機能は失われたが、宇都宮線・京浜東北線寄りの線路数本は今も大宮操車場として機能している。貨物列車や北浦和から地下へ潜り武蔵野線方面に向かう列車などが同所で待機する。

同地区にも同駅の存在を示すモニュメントがいくつか存在している。

成立背景にあった要素

YOU And Iプラン

当時の畑和埼玉県知事

当時の畑和埼玉県知事(加須市HPより)

同駅の機能停止と同時期、当時の畑和県政下においては「YOU And Iプラン」という構想が練られていた。

これは過度の東京依存の是正や県の中心都市圏の育成、そして国においても検討されていた首都機能の導入に対応する形で、大宮・浦和・与野・上尾・伊奈という5つの市町において一体的にまちづくりを進める構想。1985年に基本構想がまとまり、対象市町のローマ字頭文字をとって同名へと命名された。

同構想においては、新たな地域文化発信拠点や中枢都市圏にふさわしい高次都市機能や安全で快適な居住環境の整備などが盛り込まれた。

特に構想策定とほぼ同時に機能を停止し広大な空き地となっていた同地区は、同構想のシンボルコアとして位置付けられた。当時は横浜みなとみらいや幕張新都心の開発も進んでおり、そのことも影響したのだろう。

1992年に県知事が畑氏から土屋義彦氏に交代となった後も、同構想は継承された。同地区整備以外にさいたま市誕生にも大きな影響を与えている。

大宮・浦和、業務核都市へ指定

中央省庁においても、東京圏における一極集中の解決を図るべく、東京都区部以外の地域で相当程度広範囲の地域の中心となるべき都市を業務核都市と位置づけ、業務機能集積の核として重点的に育成整備することが構想されていた。

こうして1986年に決定した第4次首都圏基本計画において、当時の大宮市と浦和市が業務核都市に指定された。

2年後の1988年には多極分散型国土形成促進法が成立し、業務核都市育成・整備に向けた支援措置等が固まった。

国・行政機関の移転決定

1987年11月に成立した竹下登内閣下において、高度経済成長の過程で寂れた地方に活気をもたらすふるさと創生事業が実施されていた。

この過程で国の機関の都心外移転が提唱されるようになり、先述した多極分散型国土形成促進法もこれを明文化したものである。

石原信雄氏(伊勢崎市HPより)

同内閣で内閣官房副長官を務めた石原信雄氏の証言によると、移転先としてみなとみらいや幕張新都心や立川基地跡地が受け入れ姿勢を示していた。しかし当時の畑知事や後に知事となる土屋参議院議長が熱心に働きかけていた。

国としても分散して移転するのではなく全ての機関をまとめて移転させる意向であったが、新幹線が通る交通体系や各省庁の連携を考え、埼玉の同地区を適当とした。

しかし同地区は当時浦和・大宮・与野の3市域にまたがっていて、地域の核が分散する懸念があった。そこで畑知事は「さいたま新都心成立までに合併をし受け入れ態勢を整える」と約束し説得にあたったという。

こうして同地区への政府関係機関14機関移転が決定した。(最終的に17機関が移転)元号が平成へ変わった1989年のことである。

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