【愛と哀しみの埼玉の歴史】ありがとう平成 平成に埼玉で起きた出来事振り返り その1

まもなく30年もの歴史が終わろうとしている平成。

もう何日か寝ると新たな元号となりますが、それに先立ち平成時代に埼玉で起きた出来事を振り返っていこうと思います。

10年ごとに区切っていって、初回は平成元年(1989年)〜平成11年(1999年)です。

平成元年(1989年) 第1回世界盆栽大会が大宮で開催

まずは元号が昭和から平成に変わった1989年の平成元年に、盆栽の産地として全国的名高い盆栽村のある大宮市(当時)で第1回世界盆栽大会が開催されました。

日本盆栽協会主催で大宮ソニックシティを中心に開催された同イベント。「盆栽の心で築く世界の平和」をスローガンに日本を含む世界28カ国の出展者が参加。4日間に及ぶ会期中、日本の誇るべき文化を体感すべく多くの人出で賑わいました。

このイベントが契機となり、世界盆栽友好連盟(WBFF)が発足しました。

以来4年ごとに世界各地で開催されていた同イベントですが、一昨年平成29年(2017年)には28年ぶりにここ大宮の地に里帰りし、第8回世界盆栽大会としてさいたまスーパーアリーナを中心に盛大に開催されました。

スポンサーリンク

平成3年(1991年) 埼玉銀行が協和銀行と合併、のちにあさひ銀行に


続く平成3年(1991年)4月には、通称「サイギン」で長年親しまれ県や多くの市町村の指定金融機関となっていた埼玉発祥の都市銀行・埼玉銀行が協和銀行と合併し、新たに協和埼玉銀行として再スタートを切りました。金融の自由化などを目論んでの合併だったということです。

同行は翌年9月にあさひ銀行に改称して営業を続けてきました。しかしバブル期の不良債権問題や平成8年(1996年)以降に進んだいわゆる金融ビッグバンの風潮の下、2003年には旧大和銀行や奈良銀行などから成るりそなホールディングスの完全子会社である埼玉りそな銀行となり、今日に至ります。

なお県内の金融機関の動きとしては、県西部エリアを拠点としていた小川信用金庫がやはりバブル期の不良債権問題で平成13年(2001年)に埼玉縣信用金庫に営業を譲渡して解散、平成28年(2016年)には地方銀行の武蔵野銀行が千葉銀行と証券などの分野で包括提携を結んでいます。

スポンサーリンク

平成4年(1992年) 春日部市が舞台のアニメ「クレヨンしんちゃん」放映開始

続く平成4年(1992年)4月には埼玉県内を舞台にしたあるアニメの放送が始まりました。

ご存知クレヨンしんちゃん。著者である臼井儀人氏が在住していた春日部市を舞台にした同作は、青年漫画由来の際どい下ネタやブラックユーモアの効いたギャグでたちまちお茶の間の人気作品となります。しかし、それがかえって主な視聴年代である子どもたちの親御さんの間で抵抗を生んでいたこともまた事実です。

賛否両論ありましたが劇中にも春日部をはじめ埼玉の地名が数多く登場し、埼玉を全国区にした作品でした。

平成21年(2009年)には臼井氏の不慮の死、さらに昨年平成30年(2018年)には主人公・野原しんのすけ役の声優が矢島晶子さんから小林由美子さんに代わるなど波乱の歴史もあった同作。2004年には当時の春日部市の市政50周年のイメージキャラクターにも選ばれ、のちに本格的に同市や県のPRキャラクターにも選ばれています。

現在最新映画が公開中ですが、これからも埼玉の名を世界に広げてくれることでしょう。

平成4年(1992年) 外環道・和光インターチェンジ〜三郷ジャンクション開業

同4年11月には外環道(東京外環自動車道)和光インターチェンジ〜三郷ジャンクション間が開業しました。

東京から放射状に伸びる道路を連結する環状道路として都心から約15kmの地域に建設された同道。

途中の川口ジャンクションで東北自動車道や首都高速道路川口線に、終点の三郷インターチェンジで常磐自動車道や首都高速三郷線に接続し、渋滞解消や交通利便性の向上に大きく貢献しました。その後平成30年には三郷南インターチェンジから千葉県市川市の高谷ジャンクションまでが結ばれ、文字通り首都圏を輪のように巡る道路となりました。

なお、県内では平成8年(1996年)に同じく環状道路である圏央道(首都圏中央連絡自動車道)が青梅インターチェンジ〜鶴ヶ島ジャンクション間に開業し、以降徐々に区間を伸ばしていき2015年には県内区間が全通しています。

平成5年(1993年) Jリーグに浦和レッズが参入

平成5年(1993年)にはJリーグが開幕。本格的なサッカーのプロリーグとなった同リーグには、埼玉からも当時の浦和市を拠点とした浦和レッドダイヤモンズ(浦和レッズ)が参入しました。

当初はNTT関東サッカー部(大宮アルディージャの前身)が参入する話もありましたが条件が折り合わず、三菱重工サッカー部を母体とする浦和レッズが結果的にJリーグ参入を決めました。

いざJリーグが始まったものの、参入当初2年連続でリーグ最下位となった同チーム。しかしもともとサッカーが盛んであった浦和という土地柄だけに観客数は年々上昇し、チームの成績も上昇傾向にありました。

ところが平成11年(1999年)にはまさかのJ2降格。降格した試合には勝利したものの得失点差で及ばなかった話(世界一悲しいVゴール)は今でも語り草ですね。

しかし1年でJ1へ復帰すると、平成15年(2003年)には念願のタイトル獲得(ナビスコカップ)。平成17年(2005年)には天皇杯、平成18年(2006年)にはJ1優勝、そして平成19年(2007年)にはアジアチャンピオンズリーグ(ACL)優勝と国内外の主要なタイトルを獲得していきました。そして平成13年(2001年)の埼玉スタジアム2○○2完成もあって、観客数もリーグトップの座を維持しています。

以降はタイトルから遠ざかっていた時期もありますが、一昨年平成29年(2017年)には10年ぶりにACLのタイトルを獲得するなど新たな黄金時代の到来を予感させています。

スポンサーリンク

この記事が気に入ったらフォローしよう

最新情報をお届けします

おすすめの記事