【埼事記 2021/10/11】「親ガチャ」への警鐘 人生嘆くより尊重の心を

■「冷酷であっても、親子の情愛を忘れてはならぬ。刃のような言葉を浴びせても、傷つけてはならぬ」

ウィリアム・シェイクスピア原作の悲劇「ハムレット」の一節だ。

デンマークの王子ハムレットが主人公で、父である王を毒殺し母を妃に王位に就いた叔父に復讐する物語だ。ある日いきなり父を奪われたからこそ、親子の情愛について深く感じるところがあったのだろう。

■「毒親」「モンスターペアレント」「子ども部屋おじさん」という言葉が流行したように、親と子の関係性を表す言葉はとかく注目を浴びる。

そのような中で「親ガチャ」という言葉が注目を浴びつつある。「親は自分では選べない」「どういう境遇に生まれるかは全くの運任せ」という状況を、ソーシャルゲームのアイテム入手法であるガチャになぞらえた言い方だ。

特にSNSなどで「自分は親ガチャでこの境遇に甘んじているのだ」といった発言がよく見られる。一方で「親のせいにするというのは努力が足りない」といった意見も多い。

■教育社会学者の舞田敏彦氏の調査によると、東京大学に通う学生の親の世帯年収を見ると半数超の54.8%が年収950万円以上だったという。無論東大に合格するのは本人の努力あってこそではあるが、高年収のほうが予備校など受験教育により多くのコストを割くことができる。それだけ合格可能性も高まる。そうなってくると、どのような家庭に生まれてくるかが重要になってくるのかもしれない。

しかしながら、それ以下の世帯年収の家庭から東大に進んだ者もまた存在しているのは紛れもない事実である。東大は国立大学であるため、家一軒ほどの学費がかかることもある私立大学に比べればまだ学費面ではハードルが低い。経済面で余裕がないからこそ国立大学、それも東大を目指すといった事情も考えられる。

なんにせよ、「親ガチャ」が機能しているようでも必ずしもそれが全てを決めているわけではないことがわかる。

■それにもかかわらず「親ガチャ」と言葉で自らの人生を悲観的に見る向きがあるが、一体それで嘆いて何が変わるというのか。どれだけ嫌なことや悲しいことがあったとしても、人間は日々生きていかなければならない。無意味に嘆くよりかは自分の好きなことをするなり知り合いと語り合うほうが、よっぽど生産的と言える。そうでないと明日を生き抜く力が生まれてこない。

「親ガチャ」と嘆いたところで今の状況が好転するわけもないし、出自の家庭がより恵まれたものに変わるわけでもない。

単なる空虚しか生まれないのに、何が楽しくて「親ガチャ」で嘆くのか理解ができない。

■自分自身に対して「親ガチャ」を使うのも好ましくないが、他人に対して「親ガチャ」を使うのも無神経だ。

体外受精など命の誕生に新たな形が生まれつつあるが、我々一人一人の誕生には例外なしに親が関わっている。その性格や体格の形成にも親の影響は多少なりともあったことだろう。いわば親というものが我々の個性になり、命の一部になっている。

それゆえ、他者に対して「親ガチャ」というのは、その人を否定することと同義と言える。その人とて親がいたからこそ今存在している。それを「親ガチャ」という言葉一つで一蹴するのがどれだけ失礼にあたるか、考えもしただろうか。

■「二度と帰らぬものは過ぎ去った歳月である。二度と会うことができないのは死んでしまった親である」

孔子一門の説話を集めた「孔子家語」にはこうある。

小生自身も人生の境遇から親を恨んだことは一度や二度ではなかった。しかし或る日突然母を失ったことで、親子関係の価値や親がいたからこそ今の自分があるということを強く認識するようになった。そこからは人生を自分ごととして認識できるよう思考も変わったように思える。それでも母はもう帰ってこない。変わった自分を見せることはできない。

ありきたりな言い方になるが、「親孝行したいときに親は無し」だ。親を失ってからでははっきりいって遅い。

「親ガチャ」と親を恨む前に、まず親に対して尊重の心を持てないか。恨みや憎しみではなく慈愛の心を持つことで、人生も変わってくるはずだ。

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