
■未知のウイルスで右往左往させられた2020年が本日で終わる。
東京五輪延期に代表されるイベントの延期・中止が相次ぎ、地域の商店や事業者も利用者減で少なからぬダメージを受けた。日々感染者も最多を更新する状況であり、引き続き予断を許さない状況が続く。
そのような中でも街を歩くとしめ縄や門松が目に入ってくる。日本人の性なのかこのような光景を見ると、今年はどうだったかとつい振り返ってしまう。
■言うまでもなく来年2021年は埼玉150周年、そしてさいたま市20周年の記念すべき年となる。
大宮・浦和・与野という関東を代表する都市同士が一つになって以来、地図や標識などでも「さいたま」という表記を見ることが当たり前のようになった。よくテレビなどで話題になる「大宮・浦和戦争」も今となっては過去の話だが、依然としてそのような対立も地域では強く残っているところもある。
■そのような中で一昨日12/29、1990年から合併時の市消滅まで旧大宮市長を務めた新藤享弘氏が12/19に死去していたと報じられた。死因は明らかではないが、享年88歳であった。
地元出身の同氏は中央大学を経て旧大宮市に入庁。秘書課時代は東北・上越新幹線開業へ向けてソニックシティをはじめ大宮駅周辺開発の陣頭を担った。
1990年にはそれまで市長を務めていた馬橋隆二氏の後継指名を受け、市長選に立候補して初当選を果たした。
以来3期11年にわたって緊縮財政による財政優良化に努めるとともに、地域における各種インフラ整備などを担当した。大宮アルディージャのJリーグ参入にあたっても関係各所との調整に動き重要な役割を果たした。
■一方でいわゆるYOUandIプランのもと、さいたま新都心の造成及び3市合併の具体化と地域を取り巻く状況も大きく変わっていった。
同氏も上尾市や伊奈町を含めた合併や、合併後の市名を引き続き大宮市とするのを提唱したが、叶わなかった。
結局2001年の3市合併及びさいたま市という新市名が決定し、同市は消滅することになった。合併に際したさいたま市長選にも同氏は立候補するが、旧浦和市長を務めてきた相川宗一氏に敗北。「最後の大宮市長」はこうして街とともに表舞台から去った。
引退後も大宮叙勲者会の会長を務めるなど地域活性化へ精力的に活動しており、政令指定都市に移行した2003年にはさいたま市名誉市民に選ばれている。
■区名や駅名には残っているものの、マンホールもさいたま市仕様のものが増えてきており、合併から20年経って「大宮」を意識することが少なくなりつつある。
旧大宮市役所として使われてきた旧大宮区役所や旧大宮図書館も役目を終え、市民会館おおみやも移転が決まっている。大宮駅周辺で再開発が進み利便性向上が図られるも、どこか往年の面影は失われている。
そこに「最後の大宮市長」たる同氏の死去が重なった。
「『大宮』は遠くになりにけり」か。
■合併・市の消滅から20年近くが経つ状況下で、同氏も思うところは大きかったことだろう。
これからも地域は発展していくことだろうが、その礎を確固たるものにし今日へと繋げたのは同氏の功績に他ならない。
改めて同氏の冥福を祈ると共に、その功績に敬意を表したい。
■2021年まであと数時間となった。
少子高齢化やコロナ禍など今後ますます混迷を極める社会において、いかに強く自立した地域をつくっていくか。地域の強みや資源を生かし、差別化を図っていくか。
節目となる年に、地域は新たなフェーズに突入しようとしている。バトンを託された我々市民は、その中でどう振る舞うか。