ちゃんと愛ある本庄市 その1 イントネーションは平たく

埼玉県北西部の都市・本庄市の見どころを連載形式で紹介していく。

NACK5のCMでも「ほんじょう」と読むときのイントネーションが話題となったが、果たしてどのような場所なのか。

中山道最大の宿場町

市のプロフィール

東京から80km圏で人口約76,000人を擁する本庄市は、市としては埼玉県最北にあたる。

地形は概ね平坦で安定しているが、旧児玉町地域にあたる南西部は500m級の山々が連なる山村地となっている。群馬県に近いこともあり、平坦な中央部は秋冬になると赤城おろしと呼ばれる西風にあたることも多い。

北に利根川が流れ、市北部にはJR高崎線と国道17号、中央部に関越自動車道と上越新幹線が東西に横断する。中心市街地はJR高崎線本庄駅周辺で市役所も同駅に近い。2004年には上越新幹線本庄早稲田駅が開業し、周辺エリアでは宅地化も進んでいる。

ガリガリ君でおなじみの赤城乳業や沖電気など工場も多く立地するが、平坦な土地を生かした農業も盛んに行われており、キュウリやナスなどが名産。

市の沿革

(本庄市HPより)

原始時代の頃より人が住んでいた同市域。鷺山古墳や大久保山古墳群など古墳も多く残されている。特に1998年に旭・小島古墳群の前の山古墳で見つかった埴輪(上画像)は全国でも珍しい笑う人がかたどられている。

奈良時代前後には児玉郡が設置され、児玉庄という荘園が経営された同市域。古代末になると、武蔵七党武士団の最大勢力である児玉党が児玉氏により勃興した。同党本家たる児玉氏は庄氏を経て鎌倉時代に本庄氏を名乗るが、これが地域名の由来となる。

中世には軍事的に重要拠点だった同市域で、1556年には本庄宮内少輔実忠が本庄城を築城。しかし本庄氏が滅びると小笠原掃部大夫信嶺が入城。以降は小笠原氏の城下町として栄えていった。

江戸時代になると中山道の整備とともに本庄宿が設けられる。同宿は天保年間になると人口4,554人、1,212軒を数える中山道最大規模の宿場町となるまで発展した。野生の蚕糸を使った本庄手織銘仙の生産もこの頃から行われていた。

明治時代に入ると同銘仙は全国に流通し、本庄絣(かすり)としてブランド化がなされた。1883年には日本鉄道(現在の高崎線)の終点として本庄駅が開業し上野と鉄道で結ばれるなど、同市域の養蚕は栄華を極めた。

行政区分を見ると1889年には町村制施行で本庄地区では本庄宿が児玉郡本庄町となり、児玉地区でも2町が合併し児玉郡児玉町が誕生した。
昭和時代に入った1954年に本庄町は周辺の村を巻き込んで市制移行。時代が下り2006年に旧本庄市と旧児玉郡児玉町が合併し、現在の本庄市となった。

本庄こぼれ話

盲目の国学者・塙保己一

同市では歴史上の重要人物も輩出している。

それが江戸時代の国学者・塙保己一(1746〜1821)だ。

現在の本庄市児玉町保木野に虎之助として生まれた塙は、胃腸病で7歳にして失明。回復を祈って辰之助と名前を変えるが、視力が戻ることはなかった。

しかし元来より好奇心旺盛な塙は物覚えがよく、15歳の時に勉学のため江戸へと出て雨富須賀一検校の門人となる。鍼や按摩などを学ぶも一向に上達できず自殺も考えるほどだったが、雨富検校に学問への想いを伝えると3年間の条件付きでこれを認められた。

国学や和歌など様々な学問に触れた塙は、他者の音読を通じて知識を体得。大いに才能を発揮し国学の四大人たる賀茂真淵にも入門。検校の道を志した。

こうして塙保己一を名乗った塙は1783年に検校となり、1793年に幕府の協力のもと和学講談所を設立。同所を拠点に国学の研究に励む。

そして同年より北野天満宮に刊行を誓った群書類従の刊行を始めている。古書の散逸を危惧される中、同書は古代から江戸時代初期までに書かれた史書や文学作品計1,273種をまとめたものだ。23年の長きにわたり刊行されたが、最終的に武家部や官職部など25部666冊にまで及んでいる。

1821年に総検校となり76歳でこの世を去った塙。埼玉三偉人の一角になるなどその功績は大きく、奇跡の人として知られるヘレン・ケラーも塙を手本とするよう教育されてきたという。

今回は訪問できなかったが、同市にある生家は国の史跡になっており児玉地区の塙保己一記念館では塙の歩みやゆかりの品々を紹介している。また川越市には塙の名を冠する県立特別支援学校塙保己一学園もある。

幻の本庄遷都論

江戸時代以降日本の首都は江戸・東京に置かれているのは周知の通りだが、実は本庄が首都になる可能性があった。

それを提唱したのが明治時代に元老院議員を務めた佐野常民(1823〜1902)だ。佐賀出身の佐野は日本赤十字社の元となる博愛社を設立したことでも知られる。

明治時代の1878年、佐野は本庄遷都を勧める意見書を議会に提出。この中で東京は江戸湾からの襲撃や伝染病に弱いことから、首都は内陸で製糸業も盛んな上州・武州にすべきとした。

それでも前橋や高崎は水利や気候などに難がある。しかし本庄であれば地の利や水利が良く、気候もそれほど寒くなく好ましいとした。

こうして同意見書で本庄遷都を推したものの、結局審議されることはなかった。

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