
鎌倉街道が縦断していた嵐山町は、平安時代後期〜鎌倉時代中期にかけて活躍した多くの坂東武者にとってゆかりの場所になっている。
同町含めた比企地域には彼らが住んでいたとされる城址も多く残されており、文化遺産にも指定されている。
坂東武者と比企地域
比企城館跡群とは
同町が属する比企地域には中世から築かれたとされる城址跡が数多く残されている。
後述する菅谷城跡のように同町にも少なからぬ城址が存在するが、2008年に地域内の以下4城址が比企城館跡群として史跡登録されている。
- 菅谷城跡(同町)
- 杉山城跡(同町)
- 松山城跡(吉見町)
- 小倉城跡(ときがわ町)
いずれも館自体は存在しておらず戦国・江戸時代を経て当時とはだいぶ様も変わってはいるが、保存状態も良好である。
秩父氏本拠地だった嵐山
荘園制が敷かれた平安時代、税徴収強化へ国司の権限が強化されると各地で紛争が起こるなど治安が悪化していた。
紛争解決へ朝廷は武芸へ秀でた国司経験者や貴族に武装を許可し、やがて彼らは各地域の紛争を解決し武士団を形成していった。これが武士の興りである。
このうち武蔵国秩父郡の秩父国造の子孫として派生した武家が秩父氏で、武蔵国一円に勢力を振るった。小山田氏や河越氏や畠山氏など多くの支流も生まれている。
そして貴族社会が鳴りを潜め武士による支配が現実味を帯びてきた平安時代末期頃から、同町域は同氏の拠点となっていた。平沢寺からは秩父重綱の名が入った経筒が見つかっており、菅谷城には畠山重忠が居住していたとされる。加えて大蔵館は秩父重隆と源義隆の住まいで木曽義仲誕生の地ともされている。
鎌倉街道が通り出征がしやすいこともあるだろうが、同町は同氏をはじめとする坂東武者にとって浅からぬ縁がある地域と言える。
畠山居住の地?菅谷城跡
歴史に消えた城跡
その一つとされるのが、菅谷城跡だ。
今となっては当時の建物は残っておらず一面に草木が生えているが、武士の鑑として源平合戦でも活躍した畠山重忠が晩年まで過ごしていた菅谷館がこの敷地内にあったとされている。
菅谷城として城が建てられたのは室町時代に入った1488年の須賀谷原合戦の頃とされ、山内上杉氏の居城として建てられたといわれる。1505年に敗軍となった扇谷上杉氏が同城に幽閉され、山内上杉氏も鉢形城からこちらに移ったという。その後は伝馬の中継地にもなっていたようだが歴史書に出てくることは少ない。しかしながら出土品から推察するに、江戸時代に入った17世紀までは武士が所在していたと考えられている。
本郭をはじめ一ノ郭、二ノ郭、三ノ郭などが配され重厚な城であったことが窺えるが、このような姿になったのは戦国時代のことと考えられる。
武士の鑑・畠山重忠
菅谷城となる前、菅谷館に住んでいたとされるのが武士の鑑とされる畠山重忠(1164〜1205)だ。敷地内には石像も建てられている。
重忠は秩父氏の血を引いた畠山庄司重能と三浦義明の間に、深谷市畠山の地で生を受けた。当初は父と同じく平家側に仕えたが、その後は源頼朝に仕え鎌倉入りや宇治川や一ノ谷の合戦、奥州藤原氏の征討などで多くの手柄を立てた。頼朝の腹心として多くの信頼を受けて、いつしか武士の鑑とも称された。
頼朝死後も御家人の実力者として活躍したが、北条氏の陰謀で武蔵国二俣川において非業の死を遂げた。
「吾妻鏡」には、1205年6月に『鎌倉に異変あり』と知らせを聞いた重忠が134騎の手勢を率いて鎌倉へ向かったとされているが、その出発地が「小衾郡菅屋館」となっている。これが敷地内にあった菅谷館を指すものとみられる。