【愛と哀しみの埼玉の歴史】「最後の空襲」75年ー今、語り継ぐ熊谷空襲 後編

終戦記念日前夜に熊谷市の中心市街地が戦火で襲われた熊谷空襲から14日で75年となる。

街も甚大な被害から復興したが、その市街地にはその記憶を後世に伝える事物や場所などが今も多数存在している。

(協力:熊谷空襲を忘れない市民の会)

ケヤキに残る焼夷弾の跡ー石上寺

モースも訪ねた寺

今も同空襲の爪痕が残る事物を有する場所の一つが、同市鎌倉町にある石上寺だ。

1671年に栄光上人が開山した同寺は、鉢形城主北条氏邦によって戦国時代に建てらてた堤の傍に開かれた。堤に咲く熊谷桜も有名だ。

明治時代に入った1879年8月13日には、大森貝塚を発見したことで知られるモースが講演会を開催。ダーウィンの進化論を説いたが、当時の人々には不評だったという。こうした経緯から、同寺境内には県内初の外国人科学者講演の地としてモース博士像が置かれている。

月日は経つも傷跡は埋まらず

同寺で同空襲の記憶を伝えるのが、本堂隣に立つケヤキの木。高さ15mほどはあろうか。

この木の幹に削られたような跡があるが、これは同空襲の焼夷弾によるもの。

75年の月日が流れ木の幹もだいぶ成長してきたが、それでもこの傷はまだ埋まっていない。

痛々しくもあり、その戦火の酷さを物語っている。

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痛々しい戦火の痕ー中家堂の石灯籠

続けて同市役所に近い同市本町の菓子店・中家堂を訪ねた。明治創業の同店は軍配せんべいで有名だ。

同空襲により甚大な被害を受けた同店。

中でも6基あった石灯籠は同店の看板にもなっていたが、多くの石灯籠が戦火に倒れた中で唯一この石灯籠のみが残った。

笠には焼夷弾により焦げた痕が今でも生々しく残っている。

戦後復興が進み周囲は当時と様変わりした。

それでもこの石灯籠は空襲の記憶を伝える物言わぬ語り部として、この地に建つ。

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慰霊碑が建つ星川

多くの人が亡くなった川

同市中心市街地を流れる星川。

復興事業を経て当時とは流路や様相が異なるが、同空襲時にはこの皮に多くの人々が戦火を逃れるために飛び込んだ。

やや南側を流れていた当時の同川は曲りくねり幅も狭く、戦火を前にして川の水は煮立った。

そして火災による酸素欠乏により火傷や窒息で多くの者が命を落とした。

台座に刻む犠牲者の名

同川には同空襲で命を落とした人々を慰霊し永遠の平和を祈るため、戦災者慰霊之女神が建つ。

1975年の戦災30周年にあたり、星川保勝会らが働きかけ長崎の平和祈念像を手がけた北村西望氏が手がけたものになる。

その出で立ちから、慈愛や平和を祈る尊さを感じられる。

その台座には同空襲により命を落とした266名の名が刻まれる。東京大空襲はじめ広島・長崎原爆で亡くなった人の名はいまだはっきりしないものもあるようだが、ここにはしっかりと亡くなった人の名が全員分あるのが特徴だ。

毎年8/16になると同像の前には祭壇が設けられ、多くの者が供養に訪れる。そして同日に同川では灯篭流しが行われ、平和への祈りを込めて戦災者を悼んでいる。

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