相手に思いやりをー空襲経験者の声

同川を歩いていた際に、実際に同空襲を経験した藤野さんにお話を伺った。現在では同川の環境美化に尽力されている。

当時2歳で同川近くに住んでいたという藤野さんは、空襲警報が鳴ると母や兄弟とともに必死に南の荒川方面へと逃げた。藤野さん一家は一命をとりとめたが、近所に住んでいた人々は戦火の中で倒れた建物の下敷きになったり同川に飛び込んで亡くなった人も少なくなかったそうだ。

腕の付け根などには今も焼夷弾の火が跳ねた痕が残っているという。

75年という月日が経つが、復興事業後に流路の変わった現在の同川を指差し「ここに飛び込んで多くの人が亡くなった」と史実とは異なる説明がされることもあり、違和感を感じることもあるという藤野さん。

未だ世界から戦争の火種は消えないが、平和のためには「自分の我を通さず、相手を思いやり気持ちを察することが必要」と重みを持って語る。

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戦後復興の歩み

最後に同市の戦後復興の歩みについて簡単に触れる。

鉄の代わりにジュラルミンが使われた生活用品

 

同空襲後翌日に玉音放送が流れた中、後片付けや人の捜索が始まった地域。焼失した同市役所も陣屋町の旧町役場に移った後に9月上旬には臨時復興課が設けられ、罹災者の救助など復興事業の中枢となった。なお同市役所はその後1948年に焼失した西国民学校の跡地に再移転し、1973年に現在の庁舎に代わっている。

翌年6月には同市が県内唯一の戦災都市に指定されたことで、埼玉県熊谷戦災復興事務所が埼玉県知事を長として設立。県直轄で復興事業が進められることになる。

そして同市当局と同市議会で復興計画が練られ、東西に走る旧中山道を国道17号線をとして拡張し、市役所通線や星川通線などの街路が南北に設けられた。星川についても改修が行われ、流路が曲線から直線に変わった。

こうして同空襲から30年近く経った1973年に一連の復興事業が終了し、整然とした中心市街地に往年の輝きが戻ってきたのだ。

おわり

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スポット紹介

◇石上寺

  • 住所:埼玉県熊谷市鎌倉町36

軍配本舗 中家堂

  • 住所:埼玉県熊谷市本町2-60
  • 電話番号:048-527-1001
  • 営業時間:9:00〜19:00
  • 休業日:月曜日

◇戦災者慰霊之女神像

  • 住所:埼玉県熊谷市星川1-103付近

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