季節は師走ですっかり冬本番。
このような季節、毎年ニュースなどで取り上げられるのが草加市にある草加松原。後述するようにおくのほそ道に詠まれたことでも有名な名勝ですが、毎年この時期には冬支度がなされるとのこと。
果たしてどのようなスポットなのか、改めて伺ってみることにしました。
駅に残った松原の名
同所の最寄りは東武スカイツリーラインの獨協大学前駅。急行電車は停まらず、普通電車のみが停車します。
浅草駅から約20kmの同駅に着きました。
1日平均59,971人が利用する同駅は東洋一のマンモス団地といわれた松原団地の建設に伴い、1962年に松原団地駅として開業。
以来50年以上にわたって松原団地駅として営業してきましたが、2017年に駅西口にキャンパスを有する獨協大学の費用負担を受けて「獨協大学前」に改称しました。
その際に由緒ある松原の名が駅から消失する懸念がありましたが、「草加松原」が副駅名として名付けられ松原はその名を駅名に留めたのです。
なお同駅はもともと橋上駅として開業しましたが、1988年度から現在の高架駅となりました。また1993年度には自然光を採り入れた構造が評価され、草加市第6回まちなみ景観賞を受賞しています。
今に残る松の道
江戸期からの名所
同駅東口から4分ほど歩くと、車道をまたぐ太鼓橋が見えてきます。ここが副駅名にもある草加松原への玄関口です。
千本松原とも呼ばれる同所には、綾瀬川沿い約1.5kmにわたって松並木が続いています。この地域に日光街道の草加宿が置かれていた江戸時代より名所として知られました。
その興りは諸説ありますが、1683年の綾瀬川開削の際に松が植えられたという説が有力です。
そして1700年代初頭に俳人・松尾芭蕉によって出された紀行「おくのほそ道」では、隅田川ほとりの芭蕉庵を引き払った翌日に訪れた旨が書かれています。
昭和期には消滅のピンチ?
少し駅からは離れますが、同所北端から順々に歩いていこうと思います。
石畳の道の両端に多くの松の木が植えられていますが、明治時代初期には800本近く生えていたものの高度経済成長期に排ガスの影響などで相次いで枯死し、一時は60本余りまで減少したといいます。
それでも1976年に市民による「松並木保存会」が発足。植樹と手入れが行った結果、500本近くに回復しました。
1983年からは松並木内の車道を外側に移築して遊歩道化を実施し、1988年には水と緑の調和する5つの空間エリアとして整備されました。
以来、地域を代表するシンボルとして全国にその名を知らしめています。
ところどころに俳諧の趣
おくのほそ道にも登場したスポットだけに、同所にはそれにちなんだものも数多く存在しています。
先ほど出てきた太鼓橋には百代橋という名前がついております。これは「月日は百代の過客にして」という有名な同書の冒頭に由来しています。
同じく車道をまたぐ太鼓橋が南にもう一箇所架けられていますが、こちらは矢立橋と「矢立のはじめ」という同書の一節にちなんだ名前になっています。
さらに同橋南側には日本文学研究者で今年2月に逝去されたドナルド・キーン氏による記念植樹もあります。1988年に同市で開催された「奥の細道シンポジウム」の基調講演への登壇をきっかけに、奥の細道文学賞の選出に携わるなど同市とも浅からぬ関係にあります。
他にも同書での紀行の行程を描いた地図や俳句が刻まれた石碑も数多く存在します。
松の木も冬支度
そして沿道で奥ゆかしさを醸し出す松の木には、冬ということでこも巻きがなされています。
松の木の天敵であるマツクイムシやマツカレハなどを誘い込むために、わらを粗く編んだむしろを巻き付けるのがこも巻きです。
毎年11月の立冬の時期にこもを巻き、啓蟄(3/6)の頃にこも外しを行って害虫もろとも焼却します。