踊れや踊れ!朝霞市 その2 朝霞を愛した歌姫・本田美奈子.ミュージアム

競泳の池江璃花子選手のように多くの人々が苦しんでいる白血病。

今回ピックアップしている朝霞市にも、白血病で38年の生涯を終えた歌姫がいました。

所縁の地にできたミュージアム

なぜか異なる駅名

前回降り立ったJR武蔵野線の北朝霞駅は、東武東上線の朝霞台駅に接しています。朝霞台駅は1日平均16万人が利用し、東武鉄道全体でも4位の多さとなっています。

それにしても南越谷駅と新越谷駅のように、なぜか武蔵野線と東武線が接する駅はお互いの駅名が異なるんですよね〜(笑)

そんな朝霞台駅の南口から、東久留米駅行きのバスに乗り込み市内のある場所を目指して行きます。

まもなく開館1周年

5分ほどバスに乗り、島の上バス停で下車。ここから目的地までは歩いて行きます。

少し高い場所から林道を通って降りて行きます。こんなドラマの舞台のような場所も朝霞にはあるんですね。

こちらが目的地である本田美奈子.ミュージアムです。

昭和末期〜平成初期に世間に旋風を巻き起こし、朝霞にも在住していた歌手の本田美奈子.さん(1967~2005)の偉業を称え昨年7/31にオープンしたミュージアムです。今月末に開館1周年を迎えます。

まるでライブステージ?

同氏ゆかりの品々やパネルなどを展示している館内。

入ってすぐ左にあるのが、まるで同氏が出てきて歌い出すかのようなステージ。

こちらでは同氏の活動年表や実際に着用したステージ衣装を展示するとともに、時間帯によっては同氏が出ているライブなどの映像も放映されます。

このほか2フロアある館内ではステージ衣装やレコードなど同氏ゆかりの品々やパネルの展示、さらにミュージカル出演時の楽屋を再現したブースがあります。

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歌手・本田美奈子. その生涯

生涯を通じて住んだ朝霞

同氏の経歴をご紹介させていただきます。

本田美奈子.さん(本名:工藤美奈子)は1967年7月31日に東京都で生まれました。陸上自衛隊朝霞駐屯地に勤めていた父親の都合で幼少期には朝霞市に移り住んできて、以来人生の大半を同市で過ごすことになりました。

歌手や女優として多忙な生活を送る中でも同市の実家から仕事に通い、実家近くの自然のなかを散策するのを楽しみの一つにしていたのだそうですよ。また、朝霞警察署の一日署長を務めたこともあります。

アイドルの枠に囚われない歌手

歌手になることを夢見ていた母親の影響で自身も歌手を目指していましたが、16歳の時に原宿でスカウトされ堀越高校時代の18歳の時に「殺意のバカンス」でアイドル歌手としてデビューします。1985年のことです。

それでも本人はアイドルと呼ばれることに抵抗があり、「Temptation(誘惑)」など歌う曲もアイドルらしからぬ過激な演出がなされているものが多くあります。

なお、デビューした1985年には新人歌手としては異例の日本武道館コンサートも行われています。

その後もヘソ出し衣装での歌唱が話題になった「1986年のマリリン」などのヒット曲が多く生まれ、1988年には女性のみのロックバンド「MINAKO with WILD CATS」も結成しています(1990年に解散)

歌手からミュージカル女優へ

同バンドが解散し再びソロに戻っても、思うように人気の回復しなかった同氏。それでも「歌と結婚した」というほど歌に対する強い思いを拭えず歌唱活動に励んでいました。

そんな中で同氏は1990年にミュージカル「ミス・サイゴン」のオーディションを受けます。全編歌で構成されたミュージカルだけにその意気込みも尋常ではなく、15,000人の志願者の中から主役のキム役に抜擢されます。

歌唱力や演技力が評価されて、同作は1年以上に及ぶロングラン公演となりました。

その後も「王様と私」や「レ・ミゼラブル」「十二夜」「ひめゆり」など数多くのミュージカル作品に出演しています。

クラッシックとの融合への挑戦

2000年代が近づくとコンサートなどでの経験から、次第にクラッシック音楽へと傾倒していった同氏。

2003年にはアルバム「AVE MARIA」をリリースし、「木星」や「アメイジング・グレース」などクラッシック曲に日本語歌詞をつけて歌うという新たな境地を切り開きました。

また2004年に生前としては最後に発売されたシングル「新世界」では、ドヴォルザーク没後100年を記念して代表曲である「新世界より」第2楽章を歌っています。

最後まで希望は捨てず

第一線で精力的に活動を続けていた同氏ですが、デビュー20周年となる年に悲劇は訪れた。

2005年1月に急性骨髄性白血病と診断され緊急入院します。骨髄移植も検討されましたが、その猶予すらない状況に病は進行しており入退院を繰り返すようになりました。

それでも多くの人の心に光を与える存在として、同氏は自分以外にも同じような苦しみを抱えている人々のために同年10月に後述する支援団体「Live for life」を立ち上げます。

しかし病魔は着実に彼女を蝕んでいた。立ち上げ直後の同月末に再度入院しましたが、容体が急変し同年11月6日に家族が見守る中38年に及ぶ生涯を終えたのでした。

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