前回に引き続き、おくのほそ道に登場したことで知られる草加松原周辺のご紹介です。
今回は松原から少し南にある公園を取り上げます。
かつての札場を残す公園
松原の南端に位置
同書の一節にちなんだ矢立橋を渡って、松原の南端へ。
松の木が続いてきた中で、紅葉で色づいた木々が見えてきます。
こちらは札場河岸公園という公園。
綾瀬川の河川激甚災害対策特別緊急事業の終了を記念して、1989〜1991年にかけて整備されてきました。
物流の要だった河岸
春にはソメイヨシノやしだれ桜が綺麗な花を咲かせる同園では、かつてこの地にあった船着場たる河岸を再現しています。
綾瀬川は古来より周辺地域と江戸を結ぶ大切な運河として多くの舟が行き交っていました。
そんな同川の船着場として、荷物の授受を行うために設けられたのがこの札場河岸です。元々は野口甚左衛門家によって築かれた甚左衛門河岸という私河岸であり、同家の屋号が「札場」だったことから1850年代の安政時代以降札場河岸と呼ばれるようになりました。
同河岸では、主に草加宿をはじめ周辺地域の年貢米の積み出しや江戸からの荷物の受領などが行われてきました。
同川流域には同河岸のような河岸が多数整備され明治・大正と舟運が行われてきましたが、陸上交通の発展に伴い昭和30年代には衰退し同河岸もその役目を終えました。
ここにもあるぞ俳諧の趣
ちょうど松原の南端にあたるということもあり、同園内にもそれにちなんだものが多数存在しています。
その一つが、同書の作者たる松尾芭蕉の像。俳諧の旅に出た際の装いで、ここが同書所縁の地であることを示してくれています。
その脇には同像の建立に関わった人々の名が刻まれています。
あの俳人も来た草加
そしてこちらはある有名な俳人の句碑ですが、その人はなんとbaseballを野球と訳したという正岡子規。
芭蕉の誌情に影響を受けた正岡は、1894年に弟子の高浜虚子を連れてこの地に来ました。
その際に詠んだ以下の句が刻まれています
梅を見て 野を見て行きぬ 草加まで
なお写真の撮影を失念してしまいましたが、近くには高浜の句碑もありそこには以下の句が刻まれております。
巡礼や 草加
あたりを 帰る雁
その一句、送ってみよう
こんな所に来たことで、いい句が浮かんでくるかもしれない。
そんな方に向けてこんなものも。こちらは草加市俳句連盟が設置している俳句箱です。
同連盟では上下半期ごとに札場河岸観光俳句を実施しており、優秀作品には表彰もあります。郵送の送付も受け付けているということですよ。
県産材を用いた望楼
他にも同園内には高さ12mほどの五角形の望楼があります。
内部に螺旋階段があしらわれた同施設は埼玉県産のヒノキやスギを使用。毎日9:00〜17:00にかけては中を登って周辺の景色を一望することができます。
同施設上部から見た景色。春になると周辺の桜の木々が見事な花を咲かせるだけに、見える景色はそれはまた素晴らしいことでしょう。
煉瓦造りの川の守り番
松原と並んで俳句にちなんだ要素も多い同園内には、川沿いということでこんなものも。
今は使われていなさそうですが、煉瓦造りのおしゃれな水門。
こちらは周囲の水田の用水量を調整するため、綾瀬川とこの付近で合流する伝右川の間に設けられた甚左衛門堰です。
造られた当初は木製でしたが、1890年の大水害の後に県の補助を受けて、4年後の1894年にこのような煉瓦造りとなりました。
二連アーチ型の同水門は、小口積みと長手積みを交互に段を違えて積む「イギリス積」と呼ばれる技法を採用しています。そして横黒煉瓦という煉瓦が3万2500個使用されていますが、建設年代から見ても同様の煉瓦を使った水門としては最後期にあたります。
以来1983年まで約90年にわたって使用されてきた同水門。現在は近隣の神明排水機場に水門としての役割を譲っています。
それでも地域のかけがえのない財産である同水門は農業土木技術史・窯業技術史上貴重な建造物として埼玉県の指定有形文化財となっています。