【愛と哀しみの埼玉の歴史】復興か抗戦かー川口放送所占拠事件75年

75年前の1945年、太平洋戦争下で劣勢にあった大日本帝国はポツダム宣言受諾を決意し連合国へ降伏。8/15には昭和天皇自らが玉音放送で同宣言受諾を国民に知らせ、敗戦国となった日本は復興への道を歩むこととなった。

しかしその直後、川口市から徹底抗戦を呼びかけようとしていた者たちがいた。彼らが起こしたのが川口放送所占拠事件である。

明日8/24で発生から75年を迎えるが、いったいどのような出来事だったのか。

宮城事件について

同事件の前段として起きた宮城事件について簡単に解説する。宮城(きゅうじょう)とは現在の皇居を指す。

同宣言受諾を決意したものの、日本の無条件降伏を意味する同宣言受諾に関しては将校らの反発も強かった。

このような中、降伏を阻止し徹底抗戦を呼びかけようとクーデターを企でた将校らは8/15午前0時過ぎ、玉音放送の録音を終了して皇居を出しようとしていた下村宏情報局総裁と放送協会職員など数名を拘束し監禁。
続けて近衛第一師団長だった森赳中将にもクーデター参加を迫ったが、否定の意思を示したため殺害。師団長命令を偽造して近衛歩兵第二連隊を用いて皇居周辺を占拠した。

しかし朝5時頃に東部軍の田中軍司令官らが鎮圧に入り、クーデターは失敗。一部は自殺もしくは逮捕され、下村総裁らも救助された。

結果的に玉音放送は当初の予定通りに行われたのだった。

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同事件に至るまでの経緯

川口放送所・鳩ヶ谷放送所について

同事件では2箇所の放送所が占拠された。

その一つの川口放送所は日本放送協会(NHK)のラジオ放送所として1937年に川口市内に設立。312.8mの鉄塔を有し、世界でも6番目の規模を誇る中継局だった。ただ戦中は敵国へ向けて妨害電波を流しており、ラジオ放送所としての機能はなかった。

もう一つの鳩ヶ谷放送所は同放送所の約1km東にあった中継局で、1939年に供用を開始。同放送所の第二放送所として機能していた。

事件の二人の首謀者

この宮城事件に参加していたのが、同事件首謀者の一人である陸軍通信学校教官窪田兼三少佐だった。窪田少佐は玉音放送後も各地へ赴き、抗戦の同志を募っていた。

8/21には朝霞市の陸軍予科士官学校を訪れたが、その際に陸軍予科士官学校生徒隊寄居演習隊第23中隊第1区隊長の本田八朗中尉に遭遇。宮城事件の詳細を話し、協力を依頼した。

内心では降伏に反対していた本田中尉だが、寄居へ戻ると窪田少佐も追いかけるように訪ねてきた。そこで初めて、同放送所を占拠して国民に徹底抗戦を呼びかける計画を打ち明けられたのだった。

東京・内幸町にあった放送会館

当時ラジオ放送の中心だったのは東京・内幸町にあった放送会館だが、ここを占拠しても放送所で打ち止めされたら失敗に終わる。そこで地域の主要な放送所である同放送所の占拠を目論んだのだった。

これに賛同した本田中尉は演習名目で部隊を動かすため、8/24に夜間演習を行うという体で高島中隊長から許可を得た。

徒歩で川口へ

8/23、降伏により復員が進められる中、本田中尉は第1区隊生徒に夜間演習の準備を指示。その生徒は16〜18歳の年端も行かぬ少年兵で、演習名目のため装備は空砲だった。

本田中尉や第1区隊生徒ら67名は装備を携え、同日午後8時に東武東上線寄居駅から臨時列車に乗り込み新倉駅(現在の和光市駅)に移動。同駅で窪田少佐と落ち合い、数時間待機した。

そして日付が変わった8/24午前0時頃に、雷雨に見舞われる中で一行は徒歩で川口放送所へ赴いた。

5時間かけて歩き、同日午前5時頃に同放送所に到着。窪田少佐の指揮する隊は同放送所へ、本田中尉が指揮するもう一隊は鳩ヶ谷放送所へ向かった。

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放送所占拠、その時何が

宿直の証言から

占拠時の様子を、当時同放送所で宿直を務めていた山崎幸さん(当時19歳)が以下のように証言している。

同日は2階の試験室と呼ばれる部屋で就寝していたが、明け方に突如として侵入した将校に起こされた。

寝ぼけ眼をこすると2人の将校がサーベルを突きつけ、放送をさせろと迫ってきた。外を見ると放送所の周囲には塹壕が掘られ、空砲ではあったが銃をこちらへと向けていた。

山崎さんは同放送所が敵への妨害電波送信のみに使用されており、放送には準備時間が必要と訴えた。当時のラジオ放送開始は約1時間後の午前6時からだったが、放送開始が迫る中で窪田少佐ら部隊一部は近くにある鳩ヶ谷放送所へと向かった。

同じく占拠された鳩ヶ谷放送所においても、機械故障により放送は難しいと当直職員らが訴えていた。

停電によりラジオ停波

一方で鳩ヶ谷放送所においては再三の交渉の中、5:30ごろに放送へ向けた送電のため職員が日本放送協会本部へ電話連絡。これを受けた同協会は東部軍管区司令部にも直ちに連絡をした上で、放送開始が間近に迫る中この話に乗るか停波するか苦渋の選択を迫られた。

結果的に復興を選び、両放送所への送電停止を決断。本来ならばラジオ放送のはじまる午前6時頃に、送電は停止された。

突然の停電に将校らも戸惑いを隠せなかったが、当時停電は日常茶飯事のように起きており復旧にも多くの時間がかかっていた。

自家発電という選択肢もあり実際それに向けた設備もあったのだが、将校から自家発電で賄えという声は不思議と上がらなかった。将校らも諦めを感じていたのかもしれない。

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