足袋蔵から広がる蕎麦の輪 行田市・忠次郎蔵

国内有数の足袋の産地としてその名を轟かせてきた行田。忍の城下町風情が残る街には、今も足袋蔵が多く残っている。

そんな同市には足袋蔵を活用した蕎麦店忠次郎蔵がある。

取り壊しの危機にあった足袋蔵を地域住民が活用、現在では蕎麦店だけでなく蕎麦打ち教室やコンサートといった地域交流の場所としても機能している。

足袋蔵残る行田の街

足袋を保管するために建てられた足袋蔵。同市中心部には現在も70近い蔵がいたるところに点在している。その多くが江戸後期から昭和初期と足袋産業が最盛を極めた頃に建てられたものだ。

今では少し静かになってしまったものの、往年の輝きや趣は失われていない。そのような蔵が点在していることで、街を少し歩くだけでも「ここにも蔵が」と小さな驚きが連続する。

地域でもこのような蔵を一つの地域資源と捉え、これらを活用したまちづくりを推進すべく2004年にNPO法人ぎょうだ足袋蔵ネットワークが設立された。

同法人は各蔵への案内サインの設置や蔵めぐりマップの作成、足袋工場を活用した「足袋とくらしの博物館」の運営など展開している。

スポンサーリンク

昔も今も人が繋がる場ー忠次郎蔵

そうした街並みの中で、足袋蔵を活用して営業しているのが忠次郎蔵だ。後述するようにこの蔵は、登録有形文化財にも指定されている。

 

趣ある出で立ちの店内へ入ると、土間部から畳敷の座敷が配される。

時代を感じる梁に柱。黒く大きな金庫に甲冑一式。足袋問屋として賑わった往年の雰囲気を色濃く残し、社会情勢が大きく変わった現在においてもただならぬ魅力を感じずにはいられない。

蔵の成り立ち

同蔵は足袋の原料を商う小川忠次郎商店の店舗及び主屋として、1929(昭和4)年頃に完成したとされる。忠次郎蔵とは小川に因む。

現在の群馬県太田市に生まれた小川は元々魚商を営んでいたが、当時急成長の足袋産業に着目し同店を開業した。そして同蔵の建設に至ったのだが、近隣に牧野本店が建てた新しい店蔵(前述の足袋とくらしの博物館として現存)を見て、建設にあたってはそれに負けないような店舗をと意識したということだ。

蔵自体は2階建で北面と西面を漆喰で塗り込め、北風を意識した行田特有の防火的な作りとなっている。

以来小川は同蔵を拠点に商売を発展させ、行田足袋原料問屋組合の役員を務めるまでに至った。そして1969年に81歳で生涯を終えている。

取り壊し危機から復活へ

しかし小川の死後、昭和50年代半ばには住民もいなくなり同蔵は危機的な状況を迎えた。用途がないため取り壊す話もあったという。

転機を迎えたのは2002年。歴史的建造物の再活用により中心市街地活性化を目指した行田商工会議所が同蔵に着目、翌年には同市の補助を受け改修・整備が行われた。

ほぼ同時期に同法人が設立され、人々が出入りしコミュニケーションが図れる施設ということで活用が検討された。その際に市内在住の蕎麦打ち名人に蕎麦屋としての活用を提案したところ快諾され、蕎麦蔵忠次郎蔵が誕生した。

そして2005年には、行田市の足袋産業全盛期を象徴する建物の一つとして同市初の国登録有形文化財となった。

地域交流の場として

以降同法人のもとで蕎麦屋の営業だけでなく、蕎麦打ち教室など蕎麦を軸に活用がなされてきた同蔵。しかし同法人も活動内容が拡大し負担が増える中、同教室卒業生らを中心に独自の活動が行われるようになってきた。

そこで同法人の負担軽減と同蔵の独自の活動促進を目的に、2008年にNPO法人忠次郎蔵として運営主体が独立した。

こうして現行法人のもと蕎麦屋の営業や蕎麦打ち教室、そして蔵自体の保全や活用が続けられてきている同蔵。

ミニコンサートや法人会員向けの開放などそれ以外の地域交流の場として利用される機会も多い。

スポンサーリンク

この記事が気に入ったらフォローしよう

最新情報をお届けします

おすすめの記事