説得により行動中止へ

同事件発生は脱出した職員から当時治安維持にあたっていた憲兵隊の耳にも入った。正午ごろに浦和地区憲兵隊らが、続けて午後2時頃に陸軍予科士官学校から約100名の部隊が鎮圧のために川口放送所へと入った。

そして川口放送所へ移った首謀者2名に対して東部憲兵司令部藤野鸞丈中佐から送電が止められていることが告げられ、これ以上やっても成功の見込みはないと説得があった。この説得を受け窪田少佐らは行動中止を決意、窪田少佐と本田中尉は憲兵隊へと身を委ねた。

その後、高島中隊長や同司令部田中静壱大将が到着。田中大将は参加した将校を前に「これからの日本には諸君のような若い人材が必要」と訓示。一行は列車で寄居へと帰投した。

結果的に同事件の影響で同日午前6時頃から午後3時頃までの約9時間にわたり、関東地方一帯でのラジオ放送が停波した。「このようなことはラジオ放送開始以来初めての出来事だった」と山崎さんは語る。

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事件後の顛末

首謀者のその後

窪田少佐と本田中尉はそれぞれ事情聴取を受けたが、本田中尉に関しては重謹慎三十日の後に同年11月に軍法会議に出頭。しかし結果的に不起訴処分となっている。

その後窪田少佐は地元に戻り農業や観光業などに従事し、元号が平成に変わった1990年に亡くなっている。

本田中尉も戦後は航空自衛隊に勤務し、1974年に退官。2011年に88歳で亡くなっている。

このほか、将校に訓示を行った田中大将は同事件解決数時間後に自害を遂げている。

両放送所のその後

川口・鳩ヶ谷両放送所は同事件後も中継局として使われ、戦後の復興期を支えてきた。

しかし出力増強から菖蒲町(当時)・久喜市にまたがる地区にNHK菖蒲久喜ラジオ放送所の設置を決定。1982年に川口が翌1983年に鳩ヶ谷がそれぞれ役目を終えた。

その後鳩ヶ谷放送所の跡地には1988年に埼玉県立鳩ヶ谷高校が開校している。

一方の川口放送所跡地は長きにわたり広大な空き地となっていた。結果的にNHKや埼玉県やNTTコミュニケーションズらが共同でSKIPシティの設立を決定、2003年にオープンした。

映像産業の活性化を目指す彩の国ビジュアルプラザをはじめ、川口市科学館や彩の国暮らしプラザなどが置かれる。

合わせてNHKの過去の番組や埼玉県が有する映像資料などを閲覧できる公開ライブラリーも設けられているが、その中には同事件について扱ったものもある。

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参考文献・資料

  • 「郷土の今、むかし」 1999年 川口市制作映像
  • 「放送が止まったあの夏の日」 2002年 テレビ川口制作映像
  • 「川口放送所占拠事件 帝國陸軍の黄昏」 2019年 森下智
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