【愛と哀しみの埼玉の歴史】「最後の空襲」75年ー今、語り継ぐ熊谷空襲 前編

今年2020年は第二次世界大戦(太平洋戦争)の終戦から75年となる。新型コロナの感染拡大により縮小されるが、75回目の終戦記念日にあたる来週8/15には東京・日本武道館にて戦没者慰霊式典が行われる。

75年という月日が経ち戦争経験者の数もだいぶ少なってきている。今というタイミングが彼らから我々が戦争の経験を聞くことのできる最後のチャンスかもしれない。

さて第二次大戦というと沖縄戦や原爆投下のイメージが強いかもしれないが、埼玉においても決してそれは無縁ではなかった。先述したように日本がポツダム宣言を受諾しそれが国民に知らされたのが終戦記念日である8/15だが、実はその前夜となる8/14深夜に熊谷市において空襲が行われたのをご存知だろうか。

熊谷空襲と称されるこの空襲では266の尊い命が失われたが、その日時からして最後の空襲とも言われている。

戦争の記憶が薄れていく中、改めてその戦禍や人々の苦しみを伝え平和について考えるきっかけとして連載する。

(協力:熊谷空襲を忘れない市民の会)

熊谷空襲とは?

被害全容

空襲の被害を受けた近藤油屋倉庫

 

同空襲が行われたのは、1945/8/14の午後11:30頃。グアム島の米軍基地を発ったB29爆撃機89機が熊谷市中心街に約8000発の焼夷弾を2時間近くに渡り投下した。市街地を標的とした空襲ではあるが破壊力の高い焼夷弾が用いられており、2つの原爆に次ぐ第3の新型爆弾と錯覚させる意味合いもあったようだ。

これにより市街地面積の約74%に及ぶ358,000坪が焼失、被害戸数も全戸数の4割を占める3,630戸に及んだ。同市役所や公会堂、警察署なども焼失している。

一般市民を中心に罹災者数は15,300人に及んだが、このうち死者は266名、負傷者は約3,000人となった。

同空襲による人的・物的被害は県内では最大級で、戦後に同市は県内唯一の戦災都市に指定されている。

空襲までの経緯

同空襲が行われた1945/8/14日中、当時の大日本帝国は2発の原子爆弾投下やソ連の対日宣戦布告を受けて、連合国側から示されたポツダム宣言を受諾して降伏することを御前会議で決定した。

しかしアメリカ側は、同受諾に関して同日の夜10時になっても日本が同宣言受諾を正式に通知しない場合はさらなる空襲を行うとしていた。もっともこの時宣言受諾は秒読み段階であり、ニューヨークにおいては有名な勝利祝いも行われていたようではある。

熊谷空襲に使われたB-29の同型機

 

同空襲を行った爆撃機も同日夕方にグアムを発ち日本へと向かっていたが、攻撃中止を知らせる「UTAH」暗号がなかなか発せられず、そのまま爆撃地である熊谷へと向かった。

余談ではあるが、終戦記念日というのは同宣言受諾を国民に通知した日のことで、正午に玉音放送が流れた翌8/15がそれにあたる。受諾自体は前述のようにその前日に行われているが、宣言受諾をもって終戦記念日というわけではない。

なぜ熊谷が標的に?

同市が空襲の標的になった理由は諸説ある。

一つは隣の群馬県太田市に戦闘機を製造する中島飛行機があり、同市に関連工場が多数あったことだ。実際戦後公表されたアメリカ側の調査書にも同市が航空機生産に重要な要素を含んでいると明記されている。

また、東京や大阪や名古屋など大都市はすでに壊滅的なダメージを受けていたが、中小都市である同市を最後に空襲することでフィナーレを飾りたいという連合国側の思惑もあったようだ。

加えて、県庁所在地に間違えられたという説もある。これはGHQ民間報道教育局のヘレン・へファナン大佐による証言をもとにしたものだが、実際に明治時代の廃藩置県でできた熊谷県の県庁所在地でありその当時の地図を見て誤認した可能性がある。

加えてお茶の水女子大学の栗田尚弥氏の見解では、戦後の占領政策を進めるために交通の要衝にあり関東以北の軍事的拠点とされた同市を徹底的に叩く必要があったともされる。

いずれにせよ軍需産業の拠点であり要衝であった同市は、中小都市ながらもかなり意味のある存在だと見られていたのだろう。

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平和展で見る戦時下の熊谷

さて、爆撃地となった同市立図書館においては、同空襲75年に際して「第30回熊谷平和展 熊谷空襲とその前後の時代展」が8/30(日)まで開催されている。

節目の年ごとに同空襲を取り上げる企画展が行われてきたが、開戦から同空襲そして戦後にいたるまで、同市や市民がどのように歩んできたかや同空襲はじめ戦争の惨禍を物語る資料を展示する。

戻ってきた日の丸

多くの男子が徴兵され、戦場へと駆り出された戦時中。

同展ではそれにまつわる資料として、軍服や出征者に持たせた千人針や出征者がその家族とやりとりするために出し検閲されて一部が切り取られた軍事郵便などが展示される。

戦後復員した者もいるが、多くの者が敵地で命を落とした。

出征者は無事に生きて帰ってくることを願って「武運長久」と書かれた日の丸を持って戦地へと赴いた。

これは旧男沼村出身の斎藤重忠氏(当時25歳)が1944年に出征した際に携えていたもの。家族や友人など70名近くが寄せ書きをしている。

同氏は戦局が悪化した1945/7/17にフィリピン群島で戦死した。その際に携えていたこの日の丸を米軍兵士が戦利品として回収した。以降米国で保管されていたが、同兵士子孫が同氏遺族に返還を申し出て2018年に73年の月日を経て返還されたという。

銃後の熊谷

青年男子が出征し女性や子どもらが残された同市。

戦時下においては金属供出のため身の回りの金属という金属は供出され、生活必需品についても徐々に配給制へと移行した。

衣服についても有事の際に動きやすいよう、男性は国民服、女性はモンペを身に付けるようになった。さらに火の粉やガラス片などから頭を守る防空頭巾も作られるようになった。

本土空襲が行われるようになると、空襲に対する備えとして防空訓練が10軒前後で行われるようになった。焼夷弾を想定したバケツリレーや火はたきの使用などで有事の際への対応力を高めた。また、各家庭の庭や土間下に防空壕も設けられた。

夜になると敵に見つからぬよう家の明かりを消す灯火管制が敷かれていたが、大人が少ないだけにこの見回りはこどもたちが行なっていたという。

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