みんな集まれ羽生市 その4 夢は叶わずとも…「田舎教師」のいた街

間が空いてしまいましたが、先週末に世界キャラクターさみっとが開催された羽生市のご紹介です。

同イベントに行ったよという方でも羽生のこともっと知りたいという方でも、気軽に目を通していただければ…。

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羽生が舞台の文学作品

110年前の文学作品

さみっと会場となった羽生水郷公園の近くを自転車で散策。

すると県道沿いになにやら標識や松の木が立っている場所がある。

近くを見ると「田舎教師の像」というブロンズ像が建っている。

この名前を見てピンと来られた方も多いことでしょうが、田舎教師とは今から110年前の1909年に田山花袋によって記された小説。この小説の舞台、主人公のモデルとなった人物がいた場所こそがここ羽生なのです。

同作あらすじ

明治時代の中期、主人公の小林清三は中学を卒業したものの、貧困のため進学することができずにいました。
それゆえ三田ヶ谷村弥勒高等尋常小学校に代用教員として赴任しそこで働くこととなります。

上級学校に進学する友人たちを羨ましく思いながらも文学が好きな清三は、中学時代の仲間たちや地域の成願寺の協力のもと同人雑誌「行田文学」を発行します。これが縁で同寺の本堂の一室に下宿することにもなりました。
しかし同誌は費用増や仲間の離散などでわずか4号で廃刊になってしまいます。

清三も自暴自棄になる中で次第に元の生活を取り戻します。同時にこのままではいけないと感じ東京の音楽学校の試験を受けるも不合格。
それでも生徒に教えることに対してこれまで以上のやりがいを見出し、同校での教職に精を出します。

こうして同地で静かな生活を送ることとした清三ですが、結核に冒され健康面で不安を感じることも多くなりつつありました。それでも彼は教師としての使命を全うすべく仕事を続けました。
のちに同寺を出て街の中心部近くの借家に家族と共に住むようになりますが、病は彼を着実に蝕んでいた。
日露戦争下で町が戦争一色に染まる中、彼は21年の短い生涯を終えることとなりました。

このような一青年の閉ざされた暗い半生を、平面描写によって描いたのが同作です。

田舎教師のいた学校跡

そんな同作の主人公のモデルが、明治期に同像のある場所に存在した弥勒高等小学校に勤めていた小林秀三青年(1884〜1904)です。

同校があった場所には石碑が建てられており、同作内にある一節が刻まれています。

絶望と悲哀と寂寞とに耐え得られるようなまことなる生活を送れ
絶望と悲哀と寂寞とに耐え得られる如き勇者たれ
運命に従う者を勇者という

これは作中で清三が絶望から真面目な生活に戻ろうとした際に日記に記したものです。

1901〜1904年の3年間同校に勤務していた頃の小林は、熱心な指導で多くの教え子たちに慕われていたといいます。教え子にはのちに画家として活躍した小林三季もいます。

なお同校は小林の死の直後の1909年に廃校となっています。

同作が書かれた経緯

小林秀三は羽生駅近くの建福寺に下宿し、死後同寺墓地に葬られています。

田山花袋は当時の住職・太田玉茗の義弟にあたり、日露戦争後に同寺を訪ねた折りに小林の真新しい墓に気づいたといいます。小林を見知っていた花袋は残されていた日記を見て創作意欲をかき立てられました。

後に花袋はこの日記を見たときの心情を以下のように記しています。

この日記は、あるいはこの小林君の一生の事業であったかもしれなかった。

私はその日記のなかに、志を抱いて田舎に埋もれていく多くの青年たちと、事業を成し得ずに亡びていくさびしい多くの心とを発見した

こうして日記や地域の人々の証言をもとに、同作は世に出ました。

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