【埼事記 2023/2/19】全入時代であっても 大学で学ぶ意味とは

■「人間形成はもともと人間一生の仕事であって、種々の方法によって行われる。しかし大学において、 人間をつくる道は学問でなければならない。大学は学問を通じての人間形成の場である、というべきである」

哲学者で草加市にキャンパスを置く獨協大学の初代学長を務めた天野貞祐(1884〜1980)の言葉だ。

「大学は学問を通じての人間形成の場である」という一節は、同大学にも石碑に刻まれている。「獨協」も戦前の獨逸学協会から、敗戦を受けて「独立協和」に位置付けたが、人の独立・協力に向けても学問を通じた人間形成は欠かせないということなのだろう。

■如月も下旬に差し掛かるが、世間では大学受験がピークを迎えている。今月末から日東駒専、明青立法中(MARCH)ときて、今は早慶と私大入試真っ只中というところだ。来週2/25からは国公立大学前期入試も始まる。

東大京大一橋大はじめ、難関大学を目指す受験生にとっては今が正念場といえよう。

折からの少子高齢化を受けて、定員割れ私大の増大など大学受験や大学経営も曲がり角を迎えている。センター試験に変わる共通テストの開始や定員厳格化など新たな動きもある中で、海外大学へ直接入学する者もいる。

それでも大学進学を目指して、多くの受験生が日々勉学に励む。その様には頭がとても上がるまい。

■1960年代くらいまでは大学を出て学士の称号を得る者は「学士様」と重宝された。それだけ大学進学率が低かったゆえだが、近年では50%近くにまで上昇。大学生が増えたことで、いわゆるFランク大学と呼ばれる大学も出た。一方で有名大学の偏差値は上昇傾向で、入学するのも難関だ。

学士が増えたことで、社会に出て「東大を出ていても使えない」などと呼ばれる者も増えてきた。しかも大学全入時代の到来で誰でも大学に行きやすくなったから、学士の質の低下も叫ばれている。

■私事になるが、先日小生は経営学の大学院を無事修了することが決まった。学部時代は東大文二を希望していたが、流石にそこまで力量は及ばなかった。それでも一橋大商学部に入学して多くのことを学べたし、経営・経済学の一人者と呼ばれる学者のもとで勉学に励めたのは大いに指針となった。

卒業後は社会の荒波に揉まれるに揉まれた。「一橋出たのにこのザマか」などと後ろ指さされたことも少なからずあったし、「そんな大学で学んできた意味なんてあるのか」とも思った。

それでも紆余曲折あり、行き着いた先が今の大学院だった。大学時代も学んだようでしっかり系統立てて学ぶことは少なかったが、大学院という上位のステージで一つの物事について各種理論から仮説を立てて分析することの大切さを体得した。

■特に社会に出ると、経験や実践こそが全てだという風潮が強い。確かに実際に働いて稼いでいくために、そうしたものが大切なのは異論はない。

ただ、それだけというのもやはり違う気がしている。今という時代はとにかく変化が早い。技術の発展やグローバル化が急速に進んでいることなどもあるが、そうした時代では今日の当たり前が明日の時代遅れにもなる。だからこそ、ただ闇雲に進み続けるのではなく、物事を俯瞰して過去の事例から法則を見出し未来を予測し行動に移していくことが必要となる。大学とは、そういう法則の宝庫ではないのだろうか。

高校でも英語や数学や世界史といった教科があるが、大学に眠る法則の一部分や触りに過ぎない。例えば経営学にしてもリーダーシップやモチベーション論などがあり、その理解には数学だったり国語や芸術的知識も必要だろう。

「University」という英訳に表されるように、大学というのは広くあまねく普遍的な法則が集まっているのである。文学部であっても理工学部であっても医学部であっても、あくまで学部名の学問は切り口に過ぎない。

様々な切り口から過去からわかった法則を会得する、そして会得した法則をもって未来を予測し創り出していく。これこそが大学で学ぶ意味ではないのだろうか。

■小生はいわゆるリカレント教育を修了した身であるが、あくまで学士というのはそうした法則を会得する場だと認識している。

法則を現実や過去に当てはめて捉えるのは修士で、現実や過去から新しい法則を見出すのが博士なのだと思う。どこを目指したいかは各自によるのだろう。

法則を会得する場であっても、特に有名大学であれば全国から多くの学生が集まる。大学独自の文化もあったりして、地域主体の高校までとは違った経験もできよう。それも、学ぶというよりかは、大学に在籍することで得られる大きな宝物だ。

■兎にも角にも、受験生の諸君は悔いの残らないよう全力を尽くしていただきたい。あくまで受験は通過点であって、大学に入って何を会得したかどういう経験をしたかが人としての分かれ目だ。

厳しい冬はあと少しだ、健闘を祈る。

ところで小生も、経営学の大学院に進んだのは半ば想定外のことであった。学部を卒業した時に、また別の学問で大学院に入り直したいと思っていたためだ。図らずも一つ修士号を得たことになるが、小紙を書く中で地域を知ったり地域の人々に出会うことでより多くを学んでいきたいと感じることがある。

できれば2030年より前にまた大学院に入り直したいのだが、どうなることか。そのあたり、また折に触れて綴ってみようか。

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