【埼事記 2020/9/15】拝啓 菅義偉様 国政のトップとして求めること

■かつて「だるまさん」と呼ばれた首相がいた。戦前日本で大蔵大臣や首相を務めた高橋是清(1854〜1936)のことだ。

幕末に生まれた高橋は横浜のヘボン塾(現:明治学院大学)にて学び、若干13歳の頃で藩命によりアメリカへ留学した。しかし、ホームステイ先で騙され知らず知らずのうちに奴隷として肉体労働に従事していたという。

その後はどうにか帰国し官僚として登用されるが、その職を辞して挑んだペルーでの炭鉱開発にも失敗。ホームレスにまで落ちぶれた。

それでも日本銀行に入行した後は同行総裁を経て政界入りし、6度ににわたり大蔵大臣に就任。昭和恐慌への対応や金輸出再禁止で日本経済をデフレ経済から脱却させた。半年ほどの短期間だったが首相にも就任している。

その風貌から上記あだ名がつき、二・二六事件で暗殺されるも近代日本を代表する財政家として歴史に名を刻んだ。

■時は流れ、「令和おじさん」が首相に就任することになった。その人とは、昨日行われた自民党総裁選でダントツの得票により総裁の座を射止めた菅義偉官房長官だ。

7年8ヶ月に及ぶ第二次安倍内閣を官房長官として影から支えた女房役で、昨年4月の新元号発表も行ったことでそのあだ名がついた。

■高橋と同様、同氏もまさにどん底からのスタートだった。秋田のいちご農家に生まれるも東京に行けば何かが変わると思い上京。しかし現実は厳しく、ダンボール工場で作業にあたっていた。そうした中で学費を貯めて法政大学に入学した。

卒業後はサラリーマンになるも政治の道を志願し、コネもないながら大学就職課の力添えもあり小此木彦三郎衆議院議員の秘書を11年間務めた。同議員死後は1日300軒にも訪問を選挙戦で重ねて横浜市議会議員に当選。秘書時代に培った人脈を生かして「影の横浜市長」と呼ばれるほどの存在感を見せた。

そして地方分権の実現を志して47歳にして国政に進出。第一次安倍内閣では総務大臣を務め、ふるさと納税や地方分権改革法案成立などに尽力した。政権交代を経て第二次安倍内閣が発足すると官房長官に任命され、今に至る。

■コネもなく世襲でもない中でどん底の状況からも自ら道を切り開き首相にまで登り詰めた同氏は、まさに苦労人といえよう。この点は安倍氏や麻生太郎氏など世襲とされる歴代首相とは大きな違いだ。

だからこそ、菅氏には人の気持ちに寄り添った国政運営を実現させてほしい。どん底を味わった人間だからこそ苦しんでいる人々の気持ちがわかるはずだし、首相となった今だからこそより多くの苦しんでいる人々の救いの手を差し伸べられよう。

アベノミクスに沸いた第二次安倍内閣ではどちらかというと輸出を行う大企業にとって恩恵が大きかった。しかし国内の企業の9割以上は中小・零細企業で、その恩恵が末端の事業者や国民にまで行き届いていたとは言い難い面もある。

そして昨今の新型コロナウイルスの影響で、多くの人々が苦しんでいる。まさに国難ではあるが、「コンクリートから人へ」のようにこのような時こそ人に寄り添った政治が求められている。それゆえ今までの経験を元に、菅氏には人に寄り添った国政展開を強く願いたい。

■その上で地方への配慮も忘れないでほしい。

先月3日の記者会見で、沖縄県が同ウイルス感染者用のホテルを7/29時点で十分確保できていないことについて不快感を示し、地域に責任があると述べた。これに対して同県の玉城デニー知事も、7/30までにホテルを確保し国とも話し合いを進めてきたと反論する一幕があった。

自身も地方の出身であるが、何か地方でうまくいかないことがあった際に公の場で責め立てるのはいかがなものか。今回は沖縄であったが、もしも埼玉が同じように槍玉にあげられたらと思うと悲しくなる。

当時とは身分も変わるが、地方分権を志す身として今一度その初心に帰り、活力ある地域を作り上げる手助けを願いたい。

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