【埼事記 2020/11/29】コロナの責任者は誰か?ー社会全体でなすべきことを

■ビジネスの世界では、何か問題が起きた際に自分以外の者に責任を追求するより自分の責任として捉える自責志向が美徳とされている。

すなわち自分の手の届く範囲内で問題を解決するために積極的に考えることで解決に向けて個々人が主体的に動くようになるだけでなく、経験を積んで自己の成長にもつながるというわけだ。

自己責任の強要ということにもつながりかねないが、自分で尻拭いをするという思考自体には異論はない。

■しかしこの未曾有のコロナ禍では、自責が美徳という概念も体をなしていないようだ。

気温も下がり人体の免疫も下がってきていることもあってか、ここのところコロナの新規感染者数が連日のように過去最多を更新している。

新しい生活様式が提唱されていても、プロスポーツでアウェイサポーターの入場が解禁されつつあるなど移動制限も若干緩和しつつある。

■加えて11/24、47Newsより「第3波の急拡大は『国民のせい』か」という記事が配信された。同記事では政府が行ってきたGotoキャンペーンなどに対して「国民の移動によって感染拡大の危険性を増やしてしまう」と評した上で、国民に対して自己責任を押し付けている国の姿勢を批判している。

同記事の配信に伴い、当然のようにネット上でも論争が沸き起こった。特に「入国規制緩和によって感染者が増大している」といった反論が目立っている。

小生の思い違いだろうが、普段後輩に「自責は美徳」と吹き込んでいる人々でも「コロナは自分以外の誰かのせい」と他責を美徳としているのではないかと感じる。

■しかし疑問に思ったのは、今回のコロナ禍は「誰かのせい」にできるものなのだろうか。

中国の研究所でできたウイルスが世界中に蔓延した、武漢からの帰国者があちこちにばらまいた、Gotoキャンペーンで人々が動くようになったから感染例が増えた、気温が下がり人々の免疫が落ちた、入国制限緩和で外国人の来訪が増えた。ここにきて感染例が増えている理由は様々考えられる。

その中に我々個々人が思い当たる節もあろう。

それでもちゃんとした証拠や合理性を帯びた理由が見出せない以上、これが原因と言い切ることは不可能に近い。疑うことは誰にもできようが、「疑わしきは罰せず」が基本だ。単なる疑いのみで責任を追求することは到底できまい。

地震と同様、同ウイルスは未曾有のウイルスである。地震が起きてお前のせいだと言う者など、どこにいようか。

■自責は美徳と吹聴しておきながら、何か問題が起きると責任者は誰かと詮索し、疑いがある者をこれでもかというほど糾弾する習性が我々にはある。

しかし、そうしたところで何が解決するというのか。

もしもここ数週間の感染者増加が入国制限緩和によって日本に入国した外国人の責に帰するものだとしても、果たして彼らが責任を認め賠償金を払えば事態は解決するのだろうか。非を認めたところで、感染した人は完治し客足が遠のいたお店に客が戻ってくるのか。そんなことはありえないはずだ。

■災害のような未曾有の事態だからこそ、責任をなすりつけ合うのではなくこれ以上被害が出ないよう各人・各関係者がなすべきことをすべきである。

個人レベルであれば手洗いやマスク着用、事業者レベルであれば検温での入店・入社制限やアルコール消毒の徹底、国や市町村レベルであれば事業者・個人のサポート体制の充実化といったところか。

■出どころも判然とせず被害額・規模も莫大で経路不明の感染が増えている以上、このコロナ禍を誰のせいと問うことも難しい。それだけ同ウイルスは制御不可能なものなのだ。

「お前が悪い」などと責任を擦りつけ合っている今この瞬間でも、多くの感染者が出ている。それならば責任は我々を含めた社会全体で負うより他ない。

人は一人一人個人であり、社会の構成員でもある。

我々個々人でこのコロナ禍を切り抜けるためにできることはあるか。些細なことでも自信がなくても構わない。この苦境を抜け出すために、皆で手を取り合い各々で考え共有し行動できないものか。

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