天下の勝地・長瀞町 その3 川だけじゃない長瀞ー長瀞町郷土資料館と長瀞蔵

長瀞町というと大勢の者は「荒川」や「ライン下り」のイメージを抱いていよう。

確かにそれも大事な側面であるが、それだけではない。

長瀞町郷土資料館の紹介

ロープウェイで宝登山から降り、再び寶登山神社参道を長瀞駅方面に進む。

その道すがらに長瀞町郷土資料館がある。

古代から現代に至るまでの産物や文化財などを展示する同館は、地域の歩みを後世へ広めるために設けられた。

後述するが、敷地内には国重要文化財に指定される旧新井家住宅も移設されている。

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銘仙の生まれた郷

長瀞発の村田絣

初回で同町の歴史について簡単に触れたが、豊かな自然のもと農林業を主産業としていた同町地域。

明治時代に入ると欧州への蚕種・生糸の輸出発展に伴い、より現金収入の見込める養蚕・織物業が盛んとなった。蚕の養殖から繭かき、糸編みに機織と全ての工程が一貫して地域内で行われていた。

同館の一角には当時使われていた器材類などが展示されている。桑の葉を積む籠も小学生が屈んで入れるくらいの大きさがあるが、これを当時の女性が中心となって担いでいたというのだから驚きだ。

地域には多くの織物工場が建てられ、女工らによって賑わっていたそうだ。

同地域から起きた特筆すべき事象として、村田絣がある。これは同地域出身の村田源三郎が1887年に考案した絣で、各地で好評を博し瞬く間に秩父銘仙の代表格となった。

その後昭和初期頃まで養蚕・織物業も行われてきたが、地質学的な価値を認められたことによる銅の採掘や観光開発などにより産業構造も変化し、次第に衰退していった。

養蚕の記憶伝える旧新井家住宅

同館敷地内では、同町大字中野上より移設されてきた旧新井家住宅が公開されている。

屋根が板葺きの切妻造で一部が二階建となっている同家。実際に養蚕農家として使用されてきたが、かつて地域に多く見られた意匠をよく残している。

中には広々とした土間や居住者の生活空間となる座敷、客人をもてなすでえなどが配される。また土間横には厩もあり、これも地域でよく見られた造りだ。

同家の建造年代ははっきりしないも、内部に貼られた祈祷札に享延2(1745)年の表記があり、家の構造からもこの頃に建てられたものとされている。

以来200年以上にわたり使われてきた同家。養蚕が盛んだった頃、季節になると家中に蚕葉が敷かれていたこともあったそうだ。

地域の養蚕農家の特徴を色濃く残すものとして1971年に国の重要文化財に指定された同家。1975年に同町が新井家より譲り受け、この地へ移築保存した。

板碑のふるさと

鎌倉時代から江戸初期にかけて、供養塔として全国各地に建てられた石造りの板碑

板石卒塔婆と称されることもあるが、長瀞は同碑にとっても所縁の深い地域であることをご存知だろうか。

大地が育んだ石の産地

そういわれる所以の一つに、同地域が青石の産地だったことがある。同碑に使われる石材には薄く平らに割れ成形もしやすい青石(緑泥石片岩)がもっぱら用いられていた。

その石材を採掘していた遺跡が樋口地区に残っており、県の指定旧跡にもなっている。

同地域はじめ秩父産の青石を用いて造られたものは、青石塔婆とも呼ばれていた。

高さ日本一・応安の板碑

現物は見られなかったが、高さ日本一の応安の板碑(野上下郷石塔婆)があるのも同地域が石碑のふるさとである所以の一つ。

高さにして一丈六尺七寸(約5m)ある同板碑は、刻まれた内容から南北朝時代の応安2(1369)年に近い年代に建てられたものとされる。

周辺にあった仲山城2代目の阿仁和直家は児玉郡秋山城の腰元・白糸と相愛関係にあったが、これを良しとしない秋山城が仲山城へと侵攻。戦い敗れた直家は荒川の岩上で自害する。

この時能登に身を寄せていた直家の奥方の芳野御前は、直家自害の報を知り出家。その13回忌となる応安2年に建てられたのが同石碑となる。

上部に釈迦如来を表す梵字が大きく刻まれた同板碑。当初は仲山城が望め直家が自害した荒川近くに建てられたというが、県道開通により陸地へと移設された。

1928年には国の史跡にも指定されている。

これ以外にも地域には多くの板碑があり、三基連立型などこの地域でしか見られないようなものも多い。

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