講演「被爆75年、いま伝えたいこと」
続けて講演に入る。
埼玉県原爆被害者協議会・しらさぎ会理事で自身も2歳の頃に広島原爆で被爆した坂下紀子氏が、75年の今伝えたいことについて語った。
原爆当日の模様
母と兄や4人の親戚の子どもとともに、爆心地より1.3kmほどの祖母の家に帰省していたという坂下さん。
原爆当日の模様はともに戦火から逃げた母より聞いたが、あの日の8:15に爆音とともに閃光が光り大地が割れるような音がしたという。しばらく皆気を失っていたが坂上さんの泣き声で我に戻ると、あたり一面が瓦礫の山だった。
戦火が回り家にいた皆で逃げたが、周囲の瓦礫の山からは「助けてくれ」という声が聞こえ、目は飛び出て皮膚が垂れ下がった「おばけ」のような人々が多く歩いていた。
そのような光景を前に祖母も土下座して「耐えてつかわさい」と謝るばかりだった。幼い坂下さんも瓦礫の中の人に足を掴まれたが、逃げるしかない以上母が避けた。
そうしてどうにか皆で逃げ切ったが、坂下さんの母は当時のことを話すたびに「あの時は鬼になっていた」と申し訳なく感じていたという。
死期にも言えぬー被爆者差別
終戦を経て原爆投下後4・5年ほどは被爆によるケロイドや障がいを負った人々も多く見られたという広島。街にはバラック小屋が建てられ、子どもたちが畑の作物を盗んでも見て見ぬ振りであったという。
しかし復興が進むにつれ、広島の人々に対して今度は被爆者差別が容赦無くつくつけられた。被爆者というだけで結婚や就職などで不利を強いられ偏見の目を向けられるのだ。
坂下さんの知り合いに他所の地域の男性と結婚し子どもも設けた女性がいるが、被爆者であるということを知られて子どもも引き取って欲しいと離婚を切り出されたという。その女性は子どもを引き取り育て上げ1ヶ月ほど前に亡くなったが、このような差別が今も残っているだけに最期まで被爆者手帳を周りに見せることはなかったという。
坂下さん自身も一時は結婚できないのではないかと思っていた。それでも相手先の両親が被爆者だからこそ平和を語り継いでいく使命があると考えていたため、無事結ばれることになった。
母を看取り語り部へ
核の戦災を抜けたものの、坂下さんの祖母や母は生涯原爆症とともに闘ってきた。
ちょうど原爆投下の日に祖母の実家に生えていたカンナの木をトラウマに感じていた母は晩年に認知症を患っていた。死の1月ほど前に病院の窓から見えるカンナの花をじっと見ていたことがあった。その母を坂下さんは後ろから抱きしめ「やっと原爆を忘れて浄土に行ける」と感じたという。
坂下さん自身も原爆で被爆したことを周りには隠していたが、それでも母や自身を理解してくれた義父の死をきっかけに、核の悲劇を繰り返さないためにも語り部の使命を果たそうと一念発起。世界各国の若者にその惨禍を伝えている。
講演の後はすずらん会による原爆詩集の朗読や「青い空は」の歌唱が行われた。
同会では10/24に今年度総会・講演を市民会館うらわにて予定している。(13:30開始)











