指定に動いた2人の人物
ここから同地のサクラソウが1920年に国の天然記念物に指定された経緯を紹介していく。
この指定には2人の人物の功績が大きい
植物学者・三好学
その一人が植物学者の三好学だ。
美濃国岩村藩士に生を受けた三好は1889年に東京帝国大学理学部生物学科を卒業しドイツに留学。帰国後は同大学教授として近代植物学の研究・発展に尽力した。
また希少な植物類の保存にも熱心で、ドイツで生まれた天然記念物という概念を日本に初めて持ち込んだ人物でもある。
保全の第一人者・深井貞亮
もう一人が地元の名士・深井貞亮。
20代で当時の土合村田島地区の区長、30代には村長や村議となるなど、地域村政の要職を歴任した。一方でその希少性を理解した上で同地のサクラソウの保全に熱意を注いでいた。
指定後もその保全の第一線で活躍してきた。
天然記念物指定の歩み
以前から同地来訪者による盗掘に悩まされていた深井は1916年4月に土合保勝会として國民新聞へ投稿。その現状を伝えた上でサクラソウの保全の必要性を訴えた。
この記事を見た三好は、深井の紹介のもとで現地を訪問。その希少性を理解した上で深井ら保勝会の活動の支援を約束した上で、学術雑誌などでその希少性や保全の必要性を訴えていった。
その後1919年に史蹟名勝天然記念物保存法が成立して天然記念物指定の機運が高まり、三好もその選定の中心人物となった。翌1920年4月に三好らをはじめとする調査会が同地を現地調査。選定側からも天然記念物としての価値と名勝地としての評価を得た。
こうして同年7月17日、我が国で初めて指定された天然記念物の一角に同地のサクラソウが名を連ねた。
追加指定、特別天然記念物へ
その後も指定地周辺の自生地では保全が進められてきたが、相次ぐ盗掘により保勝会のみでの活動では困難とし1926年に土合村は内務大臣に追加指定を答申。これを受け翌1927年に追加指定がなされた。
その後終戦を経て1950年には文化財保護法が成立し、2年後の1952年には同法で定められ特に重要度の高いとされる特別天然記念物に昇格している。
検討された指定解除
しかし戦間期に入ると食糧難から本来開墾が禁止されていた同地でも開墾が行われるようになった。それだけでなく同地表層土の採掘や周辺の開発、さらに相次ぐ盗掘により同地の存亡が脅かされていた。
荒川流域で現在のさいたま市西区には1934年に天然記念物に指定された馬宮村サクラソウ自生地が存在していたが、開墾によって1952年に指定を解除されるに至っている。
開墾は禁じられたものの、同地でも1952年に第二次指定地が、1954年に第一次指定地の指定解除が土合村によって検討された。しかし保勝会の反発や同村の浦和市(当時)への合併により、いずれも立ち消えとなった。
その後同地を継承した浦和市は1960年代に同地を公有地化。1974年には同地周辺にさくら草公園を整備し保全や鑑賞の拠点としている。
次回は同地サクラソウの現状や保全に関する取り組みなどをレポートする。
つづく