文化が生まれる場へーさいたまスーパーアリーナ

施設の紹介

けやきひろばと並び地区の中心施設となったのが、さいたまスーパーアリーナだ。

第三セクターの株式会社さいたまアリーナが管理・運営を行う同施設は、最大37000席を使用できる国内最大級の多目的アリーナとなっている。

最大の特徴は、客席や天井や床などが可動するムービングブロックシステムを採用したこと。これによりアリーナ全体を使用するスタジアムモードと南北でアリーナを使い分けるアリーナモードと、イベント規模に応じて効率的な空間利用が可能となる。

これ以外にスポーツクラブなどの商業施設やジョン・レノン氏ゆかりの品々を展示するジョン・レノンミュージアムが施設内に設けられたが、後者は2010年に営業を終了し2012年にコミュニティスペース・TOIROに生まれ変わっている。

完成以来。格闘技イベントや展示会やさいたま市成人式などその収容力を生かして多くのイベント会場として機能してきた。2011年の東日本大震災発生時には福島県双葉町住民の避難所にもなった。

複合施設になった経緯

ところで前回記事で同地区整備初期段階の完成イメージを紹介したが、同施設のある場所は屋内型スタジアムの埼玉コロシアムが位置しており、やや南側に展示会などを行う埼玉メッセが位置していた。

結果的に完成した同施設は、これら2施設の機能が兼ね備わった複合施設となった。なぜこうなったのか。

土屋義彦元知事(四国新聞より)

これは、1992年に畑和知事に代わり知事の座に就いた土屋義彦知事の意向によるもの。

同施設デザインコンペで審査会長を務めた伊藤滋早大特命教授の証言によると、それまで構想されていたコロシアムではスポーツ中心になるが、県民の税金を用いて造る施設だけに知的交流や娯楽を通じて文明を文化に昇華する施設であってほしいという想いを同氏は同施設に込めていたという。

結果的にコロシアムとメッセを統合する形で同施設が生まれたが、それまで20年近くにわたって長期政権を敷いた畑県政からの脱却という意味合いもあったのかもしれない。

なお土屋氏は知事職を3期務め2003年に家族の不祥事の責任を取る形で知事職を辞した。2008年に82歳の生涯を閉じたが、死後翌年に同氏を偲ぶ会が同施設で開催されている。

実は次点だったデザイン

同施設のデザインは今でこそすっかり街に馴染んでいるが、実は当初はこのデザインではない可能性があった。

同施設についても1994年6月から翌年3月にかけてデザインコンペが開催された。先述したように伊藤滋氏がその審査会長を務めた。

世界的な建築家を中心に15のグループから応募があったが、結果的に佐藤総合計画・ケヴィン=ローチ・清水建設ら「チームSAKRA」案(上画像)が最優秀と決まった。

しかし同チームに参加していた佐藤総合計画が高知県室戸市長に贈賄していた事実が発覚。これを受けて再度審査が行われることになり、次点だった日建設計・大成建設ら「MAS・2000」案が最優秀とされた。

上画像のようにチームSAKRA案ではドームのようになっているが、このようになっていたら街の景観もかなり異なっていたことだろう。

最終回となる次回は、街開き以降の地区の歴史や今後について紹介する。

つづく

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