【埼事記 2021/8/15】五輪「手のひら返し」 マスコミ責める前に自らを顧みよ

■「だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から『不明を謝す』という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである」

今から75年前の1946年、映画監督の伊丹万作(1900〜1946)が映画春秋創刊号に寄せた、「戦争責任者の問題」の一節だ。

ちょうど76年前の本日に日本の敗戦が国民に伝えられたが、以後の連合国占領下において戦争責任者の公職追放がなされた。戦中に戦意高揚映画が制作された映画界も例外ではなく、映画制作者らから成る自由映画人連盟が映画界の戦争責任者を指摘し、その追放を主張していた。その主唱者の一人に名を連ねる自身のスタンスを説いた寄稿になる。

■70年以上が経過した今、「だまされた」とまではいかないかもしれないがそれに似た状況が発生している。

前代未聞の1年延期となった東京オリンピックが先週8/8に閉幕した。

終わりの見えぬコロナ禍で開催前は市井でも反対意見が多数上がっており、それを反映してか「約6割が反対」「今こそ中止すべき」と報じるメディアも多く見られた。

しかしいざ開会式が始まると「ゲーム音楽が良かった」「金メダルだ」と、それまで反対の意を示していた者も好意的な態度を示していた。マスコミもそれまでの批判論調から連日のように五輪特集を組んでいた。

しかし五輪期間でもコロナ感染者の増加が連日のように取り上げられると「やはり五輪で感染増だ」と厳しい声が市井から上がり、閉会式を報じると「寂しい」「五輪ロス」といった声が上がった。閉会式直前に五輪に国民一人当たり約1万円の予算が投じられていると報じられると「無駄遣いだ」という声も上がった。

■そのような報道姿勢からマスコミに対して「手のひら返し」という評価を下す者も市井には多い。しかし、この評価はあまりに自分勝手すぎて現実逃れではないか。

受信料を徴収する例外もあるが、基本マスコミとは営利団体である。利益を得るには多くの利用があればいい、だから利用が見込まれる多数派の意見を押したがるのだ。批判論調を強めていたのは、コロナ禍で中止や延期を求める世論の高まりを反映していたためといえよう。それゆえますます五輪に否定的になる。

その一方で利用が見込まれるコンテンツには食いつく。自国開催ゆえ並大抵でない利用が見込まれる東京五輪は絶好のチャンスである。だから期間中は五輪を全面に推す。そして五輪に好意的になる。

結局マスコミが悪く言えば悪く捉えるし、好意的に扱えば好意的に捉える、というだけだったのではないか。そこに自己の意思や信念は、果たしてどれだけ作用しているか。

■今回のマスコミの報道姿勢を見て「手のひら返し」と捉える向きも強いが、果たしてその論調を作り出したのは誰なのか。他でもない我々も含まれよう。

あれだけ開催前にマスコミが否定的に扱っていれば「そこまで言うのも如何なものか」と声を上げることもできたはずだ。それすらまともにせず否定的な姿勢を強めたわけだから、我々こそこの「手のひら返し」の一端を担っていると言ってもよかろう。

それなのに、マスコミに対しては「手のひら返し」と批判して、自分たちは五輪に興じて閉会式で五輪ロスになり莫大な支出に怒る。いつまで自分たちは報われるべき特別な存在だと思っているのか。

■幸か不幸か、当サイトのような弱小地域メディアは大して利益など得られないし、小生が好きにやっているきらいもある。小生自身の意見として、積極的な理由ではないが五輪開催には賛成していた。中立性や現実性を加味すると市民の立場で伝えるローカルメディアとして、マスコミには肩入れするつもりは毛頭ない。

司法・行政・立法ときて、報道は第四の権力と言われている。いくら新聞・テレビの利用が減っているとはいえ、莫大な資本やスポンサーを有するマスコミは現代社会において大きな影響を与えている。

■伊丹は同寄稿でかくも述べている。

「一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである」

マスコミに対して「手のひら返し」と被害妄想をする前に、まずマスコミが敵でも味方でもないということを再認識すべきだ。報じ方が正しいか多少なりとも疑念を持つのが大事だ。

その上で、各方面から伝えられる情報をもとに自分ならどう考えるか、今一度思考回路を練り直すべきだ。何も考えないから鵜呑みにして、後になって騒ぐわけだ。

■言うなれば、個々人のメディアリテラシーの醸成が問われている。そうでもしなければ、伊丹が言うようにまただまされる。

どうも我々の社会では自らの考えを持って生きることが必ずしも歓迎されていない節がある。一億総中流という言葉に代表されるように、横並びや長いものに巻かれるのを良しとする風潮があるからというのもあろう。

しかし、そのようにしていて結局バカを見るのは、他でもない我々自身だ。「手のひら返し」と騒いだ今回の五輪がその好例だった。

弱小メディアが言える立場ではないが、メディアというのは時に役に立ち時に人々を混乱に陥れる。それを防ぐためにも、程よい距離感を保ち続けることが大切だ。

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