【埼事記 2021/7/23】日本工業大学オブジェ火災、罪は軽すぎるか?

■「罰するのはむしろ、二度と同じ過ちを繰り返させないためか、あるいは、他人に同じ過ちを避けさせるためである。われわれは絞首刑に処する者を匡正するのではなく、その者によって他の者を匡正するのである」

16世紀ルネサンス期のフランスを代表する哲学者ミシェル・ド・モンテーニュ(1522〜1592)が主著「エセー」のなかで記した一節だ。

宗教戦争の狂乱の中で正義を振りかざす者に懐疑の目を向け、自分自身の経験や古典の引用を元に人としてのあり方を説いている。ネットの発展で正義感というものが強くなりつつある現代においても、高い人気を誇る書物だ。

■昨今、ある事故の判決が「軽すぎる」と物議を醸した。2016年11月に起きた日本工業大学のオブジェ火災事故だ。

明治神宮外苑で開催された「TOKYO DESIGN WEEK 2016」に、宮代町を本拠とする同大学学生有志が「素の家」を出展。木で築いたジャングルジム内部木屑を盛り込み中に入って遊べる作品だったが、作品内の投光器の白熱電球の熱で木屑が発火。たちまち火の手が上がり男児1名が犠牲となった。事故後に同イベントは中止を余儀なくされたが、発火の危険性に気づかなかった大学生や大学側、火の手が上がる中でもイベントを続行させた主催者側に批判が相次いだ。

結果的に出展した元大学生2名と主催者4名が書類送検されたが、主催者4名は不起訴。7/13、東京地裁は元大学生2名に対して禁錮10ヶ月・執行猶予3年の有罪判決を下した。

この判決について、市井では「軽すぎる」という声が多く上がっている。

■光市母子殺害事件などを契機に被害者感情というものが優先されるようになっただけに、この「軽すぎる」という声は被害者の立場に立った正義感から出ているのかもしれない。

しかし、真に被害者の立場に立つのならこの判決を軽すぎると言ってはいけない。

今回の判決に関して、犠牲となった男児の両親は判決の日を迎えたことに安堵した上で「今回有罪となった学生らには、当時の行動を反省し、事故に対して真摯に向き合ってほしいと願っています」とコメントしている。

かけがえのない我が子の命を奪われただけに、この判決で納得しないのであれば再審を訴えて然るべきである。それでも元大学生2名に反省を促すコメントをしているを見るに、被害者両親にとっては今回の判決は納得できるものであったのではないか。

そうだとすれば、この判決を軽すぎると一蹴するのはむしろ被害者両親のためになっていない。被害者両親の意思を無視して一方的に正義を振りかざす私刑でしかなく、被害者両親を一層苦しめるだけだ。

■とはいえ軽すぎると言いたくなる面も確かにある。

先述したように主催者側は不起訴、同大学側についてはお咎めなしであった。この点については被害者両親も納得できない旨をコメントしている。

校則などで雁字搦めの高校までと違い大学は自由と自立の気風だが、学校という面では同じであり学校側にも学生の監督責任があるのは言うまでもない。学生が火災の危険性に気づかなかったのも指導不足であったのは否定できない。そして、火災発生時もイベントを続け事故発生後にも忘年会を行おうとしていた主催者側にも非があったと言わざるを得ないだろう。

連帯責任を取ればいいというものではないが、責められるべきは元大学生だけでなかろう。結局同様の事件が起きれば制作当事者のみを糾弾すればいいのか、そういう面では軽すぎる。

■同判決の直後には池袋車暴走事故の判決も出たが、こちらも軽すぎるという声が上がっている。

裁判員制度ができたりして勘違いされているきらいもあるが、いくら我々部外者が声を上げようとも、匡正するのは司法行政側であり我々自身ではない。

結局のところ、我々にできるのは同じ悲劇が起きない社会を作り上げていくことに尽きるはずだ。正義感を振りかざして被告人を責めあげるのは方向が違っている。

被害者感情の考慮が最優先だが、同じ悲劇を繰り返さないために何が正義か今一度考える余地が我々にはありそうだ。

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