【埼事記 2021/3/22】外見差別の浅ましさ なぜ人は悪癖を捨てきれないのか

■「人々は総体的に見かけで判断する傾向にある。つまり、君主はひたすら軍事力をつけて国を維持し続ければ良い。そういう外見が、大衆の評価を動かすのである」

現実主義の古典とも称される、イタリアの思想家マキャヴェリが記した君主論の一節である。

様々な君主や国を分析し君主はどうあるべきか論じた一冊であるが、その中で人が見かけで判断する傾向を踏まえた主張が上記である。

■国籍や人種、年齢や性別や体型と、この社会は多くの属性を有する人々により成り立っている。その属性は我々の目に視覚情報として入ってくる。

しかし、時にそれを否定しまたは嘲笑い世を動かそうとする者が現れる。

先日3/18、東京オリンピック・パラリンピックの開閉会式の統括責任者を務めるクリエーティブディレクターの佐々木宏氏が辞任を表明した。ソフトバンクの白戸家シリーズやサントリーBOSSなど人気CMを手がけたことでも知られる同氏だが、開会式においてタレントの渡辺直美さんを豚に準えて「オリンピッグ」と称する演出を検討していたと週刊誌報道で明らかになった。

同報道により同氏への批判が高まり、辞任へとつながった。

渦中の渡辺さんは所属する吉本興業を通じて、以下のようにコメントしている。

「実際、私自身はこの体型で幸せです。なので今まで通り、太っている事だけにこだわらず『渡辺直美』として表現していきたい所存でございます」「それぞれの個性や考え方を尊重し、認め合える、楽しく豊かな世界になれる事を心より願っております」

■この騒動に限らず、以前より我々の社会では外見で人を差別する傾向が強い。

太っている・髪が薄いといった体型・体質だけでなく、リンカーンの時代から続く米国での黒人差別などその最たる例だろう。身近なところでも学校などにおいて「デブ」「チビ」と揶揄されいじめに追い込まれる事例が後をたたない。

後天的なところもあるが、得てして外見とは各人が固有に生まれ持ってきたものであり個性とも言える。

それを害する所作こそが外見差別なのだ。いわば他者財産の侵害、すなわち窃盗や傷害と言っても差し支えはなかろう。

■なぜ外見で人を差別するのか。

様々理由は考えられるが、一種のコンプレックスが作用している可能性がある。

自分とは違う外見の人が社会で成功を収めている、もしくは収めつつある。

そのような光景を見た時、人は自らの地位が脅かされると危機感を抱き彼らに対してコンプレックスを抱く。だからそういった人々の個性を害することで、一時の満足感を得ようと考えるのだ。

そのような時にすぐに目に入ってくる外見は格好の材料になる。こうして外見差別が生まれていく。

本来であればそのような人々に負けじと自己を磨けば良いのだが、それすらも放棄して安易に外見差別へと走っていく。そこに違和感や後ろめたさを微塵にも感じずに、だ。

■今回の件で、同氏には多く批判が寄せられている。一方で我々が同氏を図に乗らせてしまったのも、また事実である。

実際、同氏が製作したCMや広告を目にせず1日を終えることなど考えられない。それだけ我々が同氏を評価し、同氏の地位を高めていたのだ。

人間とは弱いもので、地位や権力が高まるにつれてどんどんと調子に乗ってしまう。だから、そのような外見差別と捉えられないことも平気で表明する。

それでも、「デブ」を笑い者にするという風潮がなければ、そのような考えも思い浮かばなかったかもしれない。

結局のところ、我々が外見差別を捨てきれなかったことがこのような騒動につながっている。同氏が辞めて万事解決などということはなく、根本的な意識を変えなければこの問題はいつまで経っても終わらない。

同氏だけが悪いのでは無い、我々全員の責任だ。

■「賢者は内面は賢いが、外見は愚かに見える。愚者は内面は愚かだが、外見は賢く見える」

浄土真宗を興し悪人正機説などを唱えた鎌倉時代の僧侶・親鸞はこう言った。

外見差に拘泥せず、真に互いの長所を認め合い鍛錬し合う社会になれないのか。

いつまでも愚かになっていてはいけない。目を覚ます時だ。

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