お世話になっております。
今日は、いつもと趣向を変えて、封印(?)された埼玉の歴史をご紹介できればと思います。
大宮vs浦和 約400年間の対立
突然ですが、わが町大宮のライバルと言えば・・・?
みんな真っ先に浦和と答えるのではないでしょうか。
御存じのように、埼玉県庁など行政の中心があり、県立浦和高校や埼玉大学など埼玉県の教育の中枢を担う浦和
はたまた、新幹線が停まる大宮駅があり、商業施設が多く立ち並ぶ埼玉県の経済の中心大宮
この両者の対立は、今年は終わってしまいましたがさいたまダービーに限らず、様々な面で触れられることが多いのではないでしょうか。
(特にマツ●とか)
もともとこの二つの都市はそれぞれ大宮宿・浦和宿と呼ばれ、約400年前の江戸時代にはそれぞれ中山道の宿場町として栄えていました。
中山道といったら、東口の高島屋やラクーンに面し南北に延びるあの道です。
今でこそサッカーであったり、経済の中心云々でしきりに対立の構図が描かれる両都市。
それでも実は、ちょうど江戸時代から明治時代に切り替わった時に、大宮県と浦和県という県があったことはあまり知られていません。
まあ、俺もこの前まで知らなかったけど
それも同時に存在していたのではなく、
なんと大宮県が浦和県に改称したということです。
それも大宮県ができてからわずか8か月足らずで・・・
そして浦和県は2年近く生き延びるという皮肉・・・
大宮サポーターの方にとってはいささか信じられないかもしれませんが、
ネタがないからこの封印された歴史を、ど素人なりに解き明かしていこうと思います。
大政奉還から大宮県設立
時は1867年10月。
当時の江戸幕府の15代目将軍徳川慶喜は朝廷に大政を奉還しました。
これが俗にいう大政奉還というやつですね。
これをもって江戸幕府の250年以上に及ぶ支配が幕を閉じ、その後12月に王政復古の大号令がなされ、旧幕府の直轄地や旧旗本知行地は新たな明治政府に接収されました。
その後翌年1868年4月21日に発行された政体書によって、
- 地方は府・藩・県にわかれること
- 特に東京・京都・大阪など重要な土地には府を置き、その他には県を置くこと
- 府や県にはそれぞれに知府事や知県事を置くこと
の3点が盛り込まれました。
現在の埼玉の地は、戊辰戦争の影響もあって県の設置が遅れましたが、同1868年5月に周辺一帯を統括する武蔵知県事が登場。
山田一太夫、松村忠四郎、桑山圭助の3人がその職にあたりました。
この時は新政府の希望に満ち溢れたキラキラ~な統治ではなく、旧態依然とした統治が行われていたようです。
そうして1869年1月28日、大宮県が晴れて設置されました。
この際、知県事に任命されたのは、山田の後を継いだ宮原忠英。
宮原は県知事になると直ちに当時中央政府の中心にあった太政官に
大宮宿に県庁を置くよう進言しました。
これはいったん許可されました!
・・・が、翌々月の3月には当分見合わせるようにという指令を受けたということです。
これは推測ですが、7月に放送されたブラタモリを見ていた者としては、発祥のの大宮宿には参勤交代を念頭に置いた脇本陣が多く、江戸幕府が崩壊してそれらが無意味になり、そのため都市としての有用性が低くなっていたと考えられていたためかもしれないですね…
今でこそ経済の中心なんて言われますが、この時から大宮が行政の中心になれないことは運命づけられていたのかもしれないですね・・・
県庁としての機能は大宮ではなく、東京馬喰町の御用屋敷におかれたということでした
さいたま新都心涙目
ちなみに範囲としては、現在のさいたま市はじめ、桶川や伊奈など埼玉の東部、及び東京の板橋区や北区の一部などであったそうです。
(詳しい説明はwikiあたりをどうぞ💦)
なお、宮原は同年4月に知事の職を追われ、代わりに名古屋藩士にして刑法官判事の間島万次郎が県知事に就任しています。
では、そのような大宮県がいかにして浦和県になったか
その辺については後ほど書かせていただきます😅
明日公開できるかなぁ…
大宮県の未来はここからだ!!!
つづく
参考:大宮市史 第4巻 1982年大宮市発行