新座市で感じる武蔵野 その2 知恵伊豆の賜物・野火止用水

新座市内にはほぼ南北に野火止用水(のびとめようすい)という用水路が流れている。

詳しい歴史は後述するが、江戸時代に築かれて以来長く地域住民に親しまれてきた用水路だ。

野火止の由来

新座駅や市役所があり中心市街地となる駅周辺地区は野火止と呼ばれている。

さらに昔は野火止村と呼ばれていたが、その由来はこの地で焼き畑が行われた頃にその火が人家に及ぼさないように、塚や堤を築いて止めたことによるという。

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地域を貫く用水路

ニトリ新座店隣から開渠となる 用水の周りには緑も多い

同地区を流れるのが野火止用水だ。東京・立川の玉川上水から取水し、同市を通って志木市の新河岸川へと流れ、全長は約25kmに及ぶ。

川越街道沿いのニトリ新座店付近から北は暗渠(あんきょ)として地下を流れているが、それよりも南側では水路を流れる水を見て取れる。

野火止用水の歴史

水不足解消が目的

次に向かう平林寺付近は緑道となっている

同用水が造られたのは江戸時代初期の1655年。

当時は江戸の人口増により地域では水不足が深刻だった。そこで多摩川から水を引く玉川上水が造られたが、この事業に中心的に関わっていたのが川越出身の老中・松平伊豆守信綱だった。

その功績を認められた信綱は、領内の野火止に玉川上水からの分水を引くことを許された。この地には新田開発を志して55戸の農家が移住してきたが、厚い関東ローム層の台地にあるため生活用水に困る住民が多かった。それゆえ同用水の造成に至った。

40日でできた用水路

緑道周辺には武蔵野の面影残す林

工事にあたっては安松金右衛門に担当に命じ、費用に約三千両を費やした。

工事自体は同年2/10に東京・小平付近から始まったが、わずか40日後の3/20には同地域に水が流れてきたという。急を要していただけでなく、周辺に建物も少なかった当時ならではだろう。こうして同用水を流れて地域にもたらされた水は飲料水や生活用水などに使われた。

その後同用水が新河岸川まで繋がると、周辺地域に分水が築かれ水田耕作にも利用されるようになっていった。こうして同用水から水を享受した地域住民は、信綱にちなんで伊豆殿堀と称するなど同用水と密接な関係にあった。

枯渇からの復活へ

江戸・明治・大正と地域に水を供給してきた同用水だが、昭和に入ると第二次世界大戦後に転換点を迎える。

高度経済成長に伴う宅地開発が進んだことで、排水が入り込んで汚染が始まったのだ。加えて最初の東京オリンピックが行われた1964年には関東地方で大規模な干ばつが発生し、水不足により同用水への分水が中止された。

そして1973年、玉川上水から水質が悪化した同用水への取水が正式に停止されるに至った。

1944年には県の指定史跡にもなっている

しかし地域住民は決して黙ってはいなかった。自分たちの生活や文化と共にあった同用水を蘇らせようという機運が住民の間で高まっていった。

こうした地域の声を受け、県と同市は翌1974年に野火止用水復原対策基本計画を策定。

文化的業績のかけがえのない野火止用水をこのまま滅ぼしてはいけないと、埼玉県と新座市は「野火止用水復原対策基本計画」を策定し、用水路の浚渫(しゅんせつ)工事などを実施した。

こうして下水処理水をさらに浄化した高度処理水を流水に、1984年に水が蘇った。

市民交流の場として

平林寺南側では、境内に続く平林寺堀が流れる

同市では例年8月に野火止用水クリーンキャンペーンを実施している。地域の学校・市民や団体が同用水周辺を清掃する活動だ。

同活動を通じて同用水への愛護啓発だけでなく世代間交流やボランティアネットワークの拡大も図っている。

他にも同用水隣の緑道でのウォーキングなども多く開催されている。

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