ラグビーワールドカップの迫る熊谷市のご紹介に戻ります。
新一万円札の顔になる渋沢栄一が話題ですが、実は渋沢と並び今注目されている偉人が熊谷にはいるのです。
ありました!レンタサイクル
W杯のアクセス手段にも
籠原のおふろカフェBIVOUACで一泊して、高崎線で熊谷駅まで戻ってきました。
いつもの北口とは異なり、秩父鉄道を超えた南口に降り立ちます。街巡りのありがたい味方が近くにいるのだとか…。
その味方というのが、熊谷駅南口すぐの場所にあるエキナン・チュウリン 。
その名の通り駐輪場ではあるのですが、なんとうれしいことにレンタサイクルを貸し出しているのです!3時間までは¥300、3時間以上だと1日¥500で借りることができます。
ただ、借りる際には¥5,000の預かり金(自転車返却時に戻ってきます)が必要ですので、少し手持ちは多く持っていったほうがいいですけどね。
熊谷駅の周りでは数少ないレンタサイクルですが、ラグビーワールドカップ時のアクセス手段はもちろん街巡りには最適なツールです。
覚えておくと損はないかと…。
補足:6/1より熊谷市によるレンタサイクルサービスが始まりました
店舗紹介
- 住所:埼玉県熊谷市桜木町1-134
- 電話番号:048-521-3568
- 営業時間:5:00〜翌1:00
- 料金例:3時間まで¥300、1日貸し¥500(要預かり金¥5,000)
熊谷出身の三偉人ー荻野吟子
生地に建つ記念館
そして熊谷駅南口から自転車をこぐこと約40分、行田市との市境に近い利根川沿いにある熊谷市立荻野吟子記念館にやってきました。
江戸時代末期にこの地に生まれた荻野吟子(1851〜1913)は、近代日本における初の女性医師です。
後述する江戸時代の国学者・塙保己一や渋沢と並んで、埼玉三偉人の一人とされています。
生地に建つ同館では、そんな荻野の生涯や功績やゆかりの品々を紹介・展示しています。
日本初の女医、その生涯
医師を志したきっかけ
荻野はペリー来航の2年前にあたる1851年に、地域の名主・荻野綾三郎と嘉与の五女として同地に生を受けました。
17歳の頃に近隣の名主の長男と結婚しますが、2年後に夫に淋病を遷されて離婚します。
そのため上京して婦人科で治療を受けるのですが、そのとき治療にあたった医師はすべて男性であったため、男性医師に下半身を晒すことに対して大いに抵抗を抱きました。
その経験から同じような苦しむ女性たちを救いたいという思いにより、当時の日本にはまだいなかった女医を志すようになります。
いじめに耐えて通った医学校
こうして23歳の頃に国学者で中国医学の師範であった井上頼圀(よりくに、1839~1914、画像上)に師事した荻野。
24歳の時に当時開校した東京女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)の一期生として入学し、4年後には首席の成績で卒業します。
そして本格的に医師の道に入ろうと、周囲の手助けを得て秋葉原にあった私立医学校・好寿院に入学します。
しかし男子学生しかいなかった当時の医学校ではいじめを受けたことも多く、彼女自身も男子のようにはかま姿で高下駄を履いて勉学に励んでいたそうです。
道を開いた郷土の偉人
それでも優秀な成績で同校を卒業した31歳の荻野は、東京府に医術開業試験願を提出しましたが却下されてしまいました。
その翌年も同じく却下されてしまったのですが、この時に道を開いたのが同じく郷土の偉人で盲目の国学者として活躍した塙保己一(1746〜1821)だったのです。
荻野が注目したのは保己一が復元した「令義解」。平安時代に書かれた法律書ですが、医事法について書かれた箇所に「女医」の記述があったのです。
はるか1000年近く前に女医の前例があったことを掴んだ荻野は井上ら支援者と共に、「女が医者になってはいけないという条文があるか」と行政に訴えました。
最終的に荻野の熱意が通って、試験を受けられることになりました。
こうして1885年、荻野が34歳の時に合格し晴れて近代日本初の女医が誕生しました。
開業、入信、再婚、そして流転…
医師免許を手にした荻野は東京・湯島に産婦人科を開業します。すると、初の女医として大いに注目を浴び、より広い場所への移転を余儀なくされるほどでした。
そして35歳の頃、かねてより関心のあったキリスト教に入信します。入信後は婦人参政権や廃娼など女性の社会的地位の向上に向けての運動にも多く参加しました。
さらに39歳の時には、13歳年下で敬虔なキリスト教徒であった志方之善と再婚を果たします。
その翌年の1891年に、志方は当時開拓が進められていた北海道へと渡ります。荻野も5年後の1896年に医院をたたんで北海道へと渡り、志方と現地で合流します。
そして渡った先の瀬棚(現在の北海道せたな町)で医院を開業し、同地には荻野の開業の碑が今も残されています。
晩年の荻野
こうして北海道の地で診療を続けていた荻野ですが、1905年に志方に先立たれて3年後に東京へ戻ります。
東京に戻った後は向島に診療所を開きますが、大正時代に入った1913年6月に脳溢血で62年の生涯に幕を閉じました。
本郷教会で営まれた葬儀には、その道を切り拓いた荻野を慕う多くの後輩の女医が参列しました。