貧困家庭のこどもたちは親の世界が「夢の外枠」になる

生活困窮家庭のこどもたちの最大の問題は、日々のカロリー摂取量が少ない、栄養バランスに偏りがある、などの点であるのはすでに周知のところだが、その次に来る切実な問題は、「関わる社会の範囲が狭い」点だ。

こども時代を思い返してもらえばおわかりになると思うが、こどもにとって、その世界の「外枠」は、親の行動範囲とほぼイコールだ。親が社交的で、日々仕事や趣味などを通して様々な人脈・ネットワークを築き、休みの日などにも、こどもを連れて様々な場所に出向くようなアクティブな家庭に運良く生まれれば、こどもの世界の「夢の外枠」も、それにつられて自ずと拡張される。

一方、例えば親が生活困窮状態にあるひとり親家庭で、行動範囲も職場と自宅の往復に限定され、休みの日にはほとんど外出もできないほど疲れ果ててしまっている、または休みもろくに取れないようなケースの場合(こういうケースは、こども食堂に来る一部のこどもたちの家庭では日常的である)、こどもの世界の「夢の外枠」は、極めて小さくかたどられてしまう。そうした場合、こどもの想像力の範囲も自ずと限定され、将来なりたい大人の理想像を描く際に、その「外枠」の範囲内での夢を持たざるを得なくなる。伝記などに登場する立志伝中の人物であれば、どんな環境にいようが上に突き抜けようともがいて必死の努力を重ねることができるかもしれないが、必ずしもそういう野望やエネルギーを持てるこどもたちばかりではない。

つまり、親の世界が、そのこどもが未来に活躍できるであろう範囲をほぼ自動的に決めてしまう。それが、貧困の連鎖の、大きな負の側面である。

ファミマの職業体験が、その解決に全面的に役立つとまでは言わない。レジ打ちよりも年収や待遇の良い職業体験をさせるべきではないか、レジ打ちパート労働者の再生産を行うことは、「ワーキングプア」を再生産することにつながるのではないか、という見方もあるだろう。

だが、もしそれを言うなら、コンビニのレジ打ちのパート職に就くことを、一つの大きな社会復帰の目標に据えて努力を続ける親が少なからずいる、という現実にも目を向けて欲しい。様々な事情を抱え、家から一歩も出られない。面接にも行けない親がいる。生活保護から抜け出し、自立した生活に足を踏み出すためには、まずは何らかの職業に就かなければならない。だが、コミュニケーションスキルや、自己肯定感の低さから来る自信の無さから、そうした最初の第一歩を踏み出せない人たちも大勢いるのだ。そうした親たちからすれば、コンビニで一人前にレジを打てることが、社会と関わる第一歩として、可視化しやすい一つの目標となる。

そして、こどもが、そのレジ打ちを楽しい仕事であると興味を持ってくれたら、親としてもこどもの手前、頑張ってみようという気持ちになるのではないか。

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そもそもコンビニの時給問題はコンビニだけで解決すべきなのか

今回のファミマこども食堂問題で、一部の福祉系論客が指摘する、「コンビニはまず先にやるべきことがある。ワーキングプアを再生産するコンビニに、こども食堂をやる資格はない」とする主張には、違和感を覚えざるを得ない。

2015年に、政府主導の「子供の未来応援基金」がスタートし、その1周年記念の節目で、安倍晋三首相(当時)が発表した、こども食堂を応援する趣旨の声明は、福祉の世界、そして、こども食堂「業界」からも一定の批判を浴びた。そもそも、こどもの貧困は、これまでの国家政策の不作為が原因で、こども食堂を運営する民間団体が、その国家政策の不備を穴埋めしている現実がある。行政の長である内閣総理大臣がこども食堂を応援する、というのは、政治・行政としての責任放棄ではないのか。むしろ、先進国として恥ずべきことだ、という反省の弁を述べるのが本筋ではないのか、という論調が見られた。私も、そうした意見には共感するところがある。

ただ、その問題と同列になぞらえて、「企業もまた同じく、企業としての責任をまず果たせ。安易にこども食堂に関与するな」とする論理は、いささか無理筋だ。

改めて言うまでもないが、企業はまず本業で確固とした利益を上げ、その上で、社会貢献・地域への還元、地域社会の一員としての「福祉活動」に取り組む。この順序は、古今東西変わらない。ファミマも、まずは本業で利益を出せるビジネスモデルが構築できたからこそ、次の段階としての福祉に踏み出したに過ぎない。その次の一歩が、「ファミマこども食堂」だったのだろう。

もちろん、福祉系論客が指摘する点にも頷ける箇所はある。コンビニには、ワーキングプアを再生産している側面も事実としてある。これはこれで、手を打つべきだ。しかし、それは、コンビニの一業界だけで解決できる問題なのか。AIによる職業代替がささやかれる時代の節目において、そこは国・行政・企業などが一体となり、社会全体として議論して行くべき、極めて大きなテーマではないのか。

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