
本庄七福神めぐりを終え、本庄市市街地のさらに北側へと足を踏み入れた。
東西に走る元小山川の旧流沿いに設けられ、市内屈指の桜の名所とされるのが若泉公園だ。
市内屈指の桜の名所
公園の紹介
東の若泉第一公園と西の第二公園から成る同公園。近くより流れ出る元小山川の旧流(旧元小山川)沿い約1kmに渡って広がる。
西の第二公園側には滑り台や砂場などの遊具があり、遊びに興じる親子の姿も多い。公園に隣接して小中学校もあり、課外授業の場所としては最適なようだ。
川沿いに咲く桜
すっかり深緑が広がる季節になってしまったが、市内でも屈指の桜の名所である同公園。
(本庄市観光協会HPより)
春になると約160本もの桜が同川沿いにトンネル状に咲き乱れる。川面に浮かぶ無数の花びらが春の情緒を醸し出す。
桜の開花に合わせてライトアップが実施されるだけでなく、毎年4月上旬には若泉公園桜まつりが開催される。つみっこや焼きなっとうピザライスといった地元グルメや限定商品が販売されるなど、大いに賑わいを見せるイベントだ。
もちろん春だけでなく夏の柳や秋の燃え盛るような紅葉と、四季を通じて見どころが多い。
特徴的な太鼓橋
第二公園を抜けて道路を挟んだ第一公園側に来た。
第一公園に入ると川が蛇行し、川の両岸が公園となる。
川を跨ぐ箇所には赤い欄干が特徴的な太鼓橋が掛かる。桜の時期は着物で歩いてみたいとも思わなくもない。
川の近くに東屋やウッドデッキが配され、木々の枝が心地よい空気を作り出す。
梅雨時で湿度も高くなるが、そのような蒸しっとした気候を忘れさせてくれるようだ。
ちょうど段の踊り場で池のように広がる川には鯉が泳ぐが、広々とした環境でのびのび育っているためかどれも1mほどはあり非常に大きく見える。
上の写真の金の大物は、この川の「主」といったところか。
公園内の注目ポイント
アナキズムの第一人者ー石川三四郎
遊具やベンチなどの他に、公園内にはモニュメントもいくつか置かれている。
その一つが、地元出身の社会運動家石川三四郎(1876〜1956)の言葉を刻んだ石碑だ。
児玉郡山王堂村に五十嵐九十郎・シゲの三男として生まれた石川は、兵役免除のため幼くして同村の石川半三郎の養子となry。
東京法学院(現在の中央大学)に進みキリスト教に帰依した石川は、1904年に幸徳秋水や堺利彦とともに平民社に合流。日露戦争下での戦時下において平民新聞を通じて非戦論や社会主義を主張した。
その後は何度も投獄や廃刊などの憂き目に遭うが、「政府=支配者」を無くし相互扶助を基調するアナキズムを提唱する第一人者として活躍。足尾鉱毒事件に取り組んだ田中正造とも親交があった。
石碑には石川が発行した機関紙「ダイナミック」最終号の締めの言葉が刻まれる。旭山というのは彼の筆名だ。
私は何時も永遠を思ふが故に 時間を限った成業を願はない
旭山
突然現れた子育ての像
今度は東の第一公園から。
東端に子育ての像と刻まれた、なにやら意味がありそうな小さな石像が立つ。3~40cmほどで決して高いとは言えないが、白い頭巾を被っているようだ。
同公園は約40年前に水質汚濁が深刻だった旧元小山川を清流に戻すための工事の一環で設けられたのだが、河川整備の際に川底から出てきたというのがこの石像なのだそう。
誰がどこに何のために造ったかもわからぬものだったが、地元関係者はこれは仏縁によるものと大いに感激。環境浄化とこどもの健やかな育成を願い、子育ての像としてこの地に置かれることになったということだ。
以来地域の人々によって愛され手入れもされる同像。川からの思わぬ贈り物だ。
大正の面影残す賀美橋
公園東端で川を跨ぐのは、登録有形文化財に指定されている賀美橋。
大正末期に架けられた、横6.3m幅9mの鉄筋コンクリート造単桁橋だ。
同地域から織物が盛んな伊勢崎へと続く道は、それまで幅員が狭く、寺坂と呼ばれる急勾配の屈曲した道であったため荷車や自動車等の増大する交通量に対応できなかった。
加えてこの先の利根川には仮設の木橋が架けられているのみであり、当時の基幹的な産業であった生糸・織物業関係者の通行に不都合が生じていた。
このため坂東大橋の架設を伴う伊勢崎新道の開設に際して架橋されたのが同橋となる。
高欄に白タイル貼の連続アーチをあしらい親柱の各面に三角ペディメントを表すなど、近代的で凝った竣工時の様相が今も残っている。