所変われば姿変わる!?本庄三弁天
冒頭でも話したように弁財天を3ヶ所が祀っている同七福神。
これら3ヶ所に祀られている弁財天は本庄三弁天とも称される。
慈恩寺
そのうちの一つの真言宗智山派慈恩寺にやってきた。
元は別所にあったが、1556年の本庄宮内少輔実忠による本庄城築城の際に同城南東の天神林に移される。同氏氏神である天満宮の別当寺とされ初めは神宮寺と称されたが、1629年に慈恩寺と改められた。
その後1667年にこの地に移り、数度の火災と復興を経て今に至る。
同寺の弁財天はオーソドックスな立像となっている。琵琶を携えて立つ姿は神々しく凛々しい。
その脇では龍の口より水が流れ出ていて、この水で銭を洗うと金運に恵まれるという。
佛母寺
続けては金鑚神社のすぐ北にある真言宗佛母寺。
高野山聖僧の威徳房玄正が天授年間(1375〜1381年)に開創した金鑚山威徳院白蓮寺がその由来。明治時代の神仏分離・廃仏毀釈により長く廃寺にあったものを、篤信家の江原観一が観音堂を建立したのを皮切りに同寺として復興した。
同寺で祀る弁財天は慈恩寺とは打って変わり丸々としてデフォルメされた格好だ。
丸っこい様相で穏やかに微笑み、親しみを感じる。
こちらでも手前からは水が流れ、銭を洗うことができる。
夢半ばで亡くなった小笠原信嶺ー開善寺
最後に紹介するのが、布袋尊を祀る臨済宗開善寺。
1591年に児玉氏に代わり本庄城主となった小笠原信嶺によって開基される。開山したのは球山宗温和尚で、小笠原の義兄にあたり叔父はあの武田信玄になる。
明治時代になると地域初となる寺子屋が設けられ、地域の近代教育発展に大きく貢献した。
同寺墓所にはその開基に大きく貢献した小笠原夫妻も葬られる。
1547年に信濃松尾城で生を受けた小笠原は、信玄や武田勝頼らに仕える。1590年に徳川家康が江戸に入った際、豊臣氏東遷で本庄氏滅亡した後の本庄城主となる。
1万石を領しての入城後は従来の城を廃して新たに城を築き、低地で生活していた住民を台地へ移住させ新たなまちづくりに着手した。江戸幕府成立直前の1598年に江戸の地で52歳の生涯を終えている。
以降同地域、そして本庄宿は中山道最大の宿場町として発展していくのだが、小笠原はそれを見ることなく亡くなった。それでも地域発展の礎を築いた功績は大きく、このように手厚く葬られたのもそれだけ地域住民に慕われていた証といえよう。
つづく