歴史を伝える能仁寺

創建500年のお寺

同山から下山する途中、山中にある曹洞宗能仁寺に立ち寄りました。

同寺は室町時代中期の1501年に武将・中山家勝が名僧斧屋文達師を招いて小庵をこの地に設けたのが始まりとされており、家勝の死後にその子である家範によって寺院として創建されました。

特に家範の子である照守の代には徳川家康の寵愛を受けて寺院は発展していったのですが、中山家の系譜が途絶えた後は老朽化の一途をたどります。ですがその後100年ほど経った5代将軍徳川綱吉の時代、綱吉の館林時代に家老職にあった黒田直邦らの手により将軍家の後ろ盾のもと復興されたのだということです。

境内には本堂の他に総檜作りの大書院や桃山時代末期に作られ東日本を代表する庭園である池泉鑑賞蓬莱庭園などがあります。

戦いの生き証人

そんな同寺の境内にはこんな石碑が建っています。

これは幕末にこの地で起きた飯能戦争の記憶を後世に伝えていくためのもの。飯能戦争については、観音寺の回でも少し取り上げましたよね。

幕末の日本は旧幕府軍と新政府軍による戊辰戦争の真っただ中にありました。

1868年1月の鳥羽・伏見の戦いに敗れ「朝敵」として江戸に戻った徳川慶喜や上野の寛永寺に謹慎した一橋家の家臣らは、主君の汚名を注ごうと彰義隊を結成しました。しかしこの時、彰義隊を離れた渋沢成一郎を中心に彰義隊脱退者で振武隊も結成され、青梅街道の田無の総持寺を本拠としました。

5月15日、彰義隊と新政府軍の間で上野戦争が起こった際に振武隊も彰義隊の援軍に向かったのですが、時すでに遅し。振武隊は直ちに田無に戻り彰義隊の生き残りを吸収しました。こうして1,500名に膨れ上がった振武隊は5月18日に飯能の街に現れ、能仁寺や観音寺などに入り陣営を構えました。

そして5月23日、福岡や久留米など5つの藩を中心とした3,500名の官軍が飯能の街に入り、早朝から攻撃を開始。半日ほどで官軍の勝利が決まり寺はほとんど焼失してしまいました。

この時振武軍の参謀であった渋沢平九郎は変装して逃走したのですが、越生町の黒山三滝近くで官軍に捕捉されたことで割腹自殺したことは以前もお話ししましたね。

その後本堂は1936年に再建され、1970年代より境内の他の建物も再建され今に至ります。

6回に及んだ飯能市のご紹介も次回で最終回です。最後はあの場所へ行ってフィナーレの予定ですよ!

見てくれないと暴れちゃうぞ!

つづく

スポンサーリンク

スポット紹介

◇飯能市中央公園

  • 住所:埼玉県飯能市大字飯能1278
  • 電話番号:042-973-2111

◇天覧山

  • 住所:埼玉県飯能市大字飯能

◇能仁寺

  • 住所:埼玉県飯能市大字飯能1329
  • 電話番号:042-973-4128

スポンサーリンク

この記事が気に入ったらフォローしよう

最新情報をお届けします

おすすめの記事