大宮以外の埼玉・深谷市編第3回です。

中の家以外にも、渋沢栄一にまつわるスポットは市内にたくさんありますよ!

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渋沢が歩いた論語の里

前回は血洗島にある渋沢の生地と同地に建つ中の家や生涯その獅子舞に魅了されていた諏訪神社をご紹介いたしました。

渋沢は生まれてから徳川慶喜に仕える20代中頃までこの地に居住していましたが、中の家周辺では若き日の渋沢が足を運んだ場所も多く残されています。

富岡製糸場の初代工場長でいとこにあたる尾高惇忠も近所に住み、少年時代の渋沢は彼の元へ足繁く通い論語などの学問を学んでいました。中の家や諏訪神社、今も残る尾高の生家や渋沢の愛称である「青淵」の元であり中の家裏手に広がる青淵公園などを含むエリア一帯は「論語の里」として紹介されています。

時間の関係でエリア内全てのスポットは回れませんでしたが、エリア内にある渋沢栄一記念館にお邪魔してきました。

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貴重なアレもある渋沢栄一記念館

深谷らしくレンガ調

こちらが渋沢栄一記念館が入居する八基公民館です。

後の回でもご紹介しますが、渋沢つながりで東京駅にも使われたレンガも作られた深谷市。それにちなんで建物の外観もレンガ造りに似せた外観になっています。

入口すぐ左手に資料室があり無料で入館できるのですが、残念ながら内部は写真撮影不可とのこと。

展示内容といたしましては、生前の渋沢の写真を始め、渋沢や尾高直筆の書や諏訪神社の獅子舞、さらに渋沢も交換に協力した1927年に日米間で友好の証として交換された人形のレプリカも展示されています。

渋沢栄一ってこんな人

せっかくなので、渋沢栄一ってどんな人なのか 改めてご紹介させていただきます。

一時は倒幕を企てるも…

渋沢は1840(天保11)年2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島村で藍玉の製造販売と養蚕を手がける父・市郎右衛門と母・エイの元に生まれました。地域随一の豪農に生まれた渋沢は幼い頃から勉学に励み、いとこの尾高惇忠の元へ通って論語を含む四書五経や日本外史などを学びました。

剣術修行にも励んでいた渋沢ですが、20代の頃に剣術仲間の影響で尊皇攘夷の思想に傾倒するようになります。そこから高崎城の武器を奪って幕府を倒そうと目論みますが、惇忠の弟である尾高長七郎の懸命な説得により思い留まります。(1863年)

徳川最後の将軍に仕官

その後京都へと渡ったところで兼ねてより交際のあった一橋家の家臣の推薦で、一橋慶喜の元へと仕えることになります。

この一橋が後に徳川家最後の将軍となる(1866年)のですが、1867年には将軍の代わりとしてパリ万博へ出席する徳川昭武の随員としてフランス・パリへと渡ります。万博の視察のほかヨーロッパ各国を訪問した渋沢は、当時の日本にはない先進的な産業・軍備を目の当たりにして深い感銘を受けたと言います。

大蔵省から実業家へと転身

その後1868年の大政奉還に伴って日本に帰国した渋沢は、フランスで学んだ株式会社を体現すべく1869年静岡の地に金融商社・商法会所を興します。これは半年足らずで廃止となったそうですが、明治新政府が構築されるにつれ渋沢は大隈重信の説得で大蔵省へと入省します。

大蔵省では度量衡や国立銀行条例の制定に携わりました。加えて富岡製糸場の設立にも関わり、尾高惇忠を初代工場長に任命しています。

1873年に大蔵省を辞めると、兼ねてより設立指導にあたっていた第一国立銀行(現在のみずほ銀行)の頭取に就任。以降は実業家として数多くの企業や機関の設立に携わりました。

この中には七十七国立銀行(現在の七十七銀行)などの銀行を始め、東京瓦斯や東京海上火災保険(現在の東京海上日動火災保険)や王子製紙、帝国ホテルや東京証券取引所、麒麟麦酒や東洋紡績(現在の東洋紡)など多岐に渡り、その数は500以上と言われています。地元埼玉でも、秩父セメント(現在の太平洋セメント)や秩父鉄道の設立に携わりました。

ノーベル平和賞候補にも⁉︎

そんな渋沢は社会貢献にも熱心で、東京慈恵会や日本赤十字社、癩予防協会などの医療機関の設立にも多く携わりました。1923年の関東大震災の折には、復興に向けて寄付金集めにも奔走しています。

また日本国際児童親善会を設立した渋沢は、満州支配で緊張が高まっていた日米間の緊張を和らげようと1927年に前述のアメリカの人形と日本人形(市松人形)を交換して国際交流にも務めています。上の画像はアメリカから贈られた人形を手に取る渋沢の写真で、これらの人形は県内を含む全国各地に現存しています。

このような社会貢献によって、1926年と翌1927年のノーベル平和賞の候補にもなっていたそうです。

他にも1875年設立の商法講習所(現在の一橋大学)や大倉商業学校(現在の東京経済大学)や日本女子大学など実学の普及を目指して数多くの教育機関の設立にも携わった渋沢は、1931年11月11日に92年にも及ぶ生涯を終えました。

年老いてもなお説く道徳経済合一説

そんな同館の2階にはこんな展示があります。

なんと渋沢の肉声が聞けるという展示です。

これは渋沢83歳の1923年に自身が提唱する道徳経済合一説に関する講演を収録したもの。4分ほどの音声には幼き頃に学んだ論語を始め数多くの企業や機関の設置などを経て自身が考えた経済のあり方が収まっています。

すなわち、経済を発展させて利益を独占するのではなく、国全体を豊かにするためにその富を全体で共有するものと利益と倫理の両立を説いているのです。

これは現代社会のCSR(企業の社会的責任)にも繋がるところはありますが、100年近く前にこのような境地に至っていたことはさすが先見の明があったと言わざるを得ないでしょう。

スポット紹介

渋沢栄一記念館

  • 住所:埼玉県深谷市下手計1204
  • 電話番号:048-587-1100
  • 開館時間:9:00〜17:00
  • 休館日:年末年始(12/29〜1/3)、その他臨時休館日あり

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