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【愛と哀しみの埼玉の歴史】NACK5スタジアム大宮の前に石碑も!埼玉の発展に貢献した白根多助とは? 創造編

お世話になっております。

昨日に引き続いて、われらのホームNACK5スタジアム大宮の前に石碑もたっている、埼玉の偉人白根多助の紹介です。

前後編が多い今週の投稿でしたが、2回分割シリーズはいったんこれで一区切りつきます

見たとおりのマンネリ化で、本当にすみません・・・

 

 

埼玉初の医学校を設立!

 

 

昨日ご紹介したこと以外にも、白根は埼玉の発展について大きな貢献をしてきました。

その一つがこれから取り上げる、埼玉初の医学校の設立です。

 

医療水準向上のため医学校を設立

明治初期の当時、医者といっても名ばかりで、まだまだ西洋の進んだ医学には追い付かないような医療水準に埼玉はありました。

文明開化に伴ってこれからヒトやモノの流れが活発化し、新たな疫病が流行しかねない。


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と思ったかはわかりませんが、これを問題視した白根は、1875(明治8)年、浦和に医学館を設立し、医療人材の育成に着手しました。

 

 

各方面から維持費を徴収

今もそうですが、学校の設立には膨大なコストがかかります。

私大定員割れで経営難なんてことも現実に起きていますが、その運営費もばかになりません。

 

 

そこで白根はというと、

医師だけでなく獣医や鍼灸医、按摩や薬屋などの医療業界の各関係者から保護金を徴収し、それを学校の運営に充てていたといいます。

にわかには信じがたいことではありますが、それだけ医療水準を向上させたいという白根の思いが人々の間に行き届いていたということでしょう。

 

 

全国でも数少なかった公立の医学校

 

 

こうして翌1876年、医学校は華々しく開校に至りました。

当時公立の医学校というものは、東京のほかには栃木・金沢・福井・新潟くらいにしかなく、まさに公立医学校のパイオニアというものでした。

それだけに、白根の医療に対する思い入れが強かったということですね。

 

この東京の医学校が後々厄介なことになってくるわけですが・・・

 

 

しかし廃校・・・

 

 

ところが、ところが・・・

この医学校は開校からわずか3年後の1889年に廃校となってしまいます。

 

なぜ廃校となったか?

 

 

それは当時の県議会が

 

「医療なんて東京大学の医学部にやらせればええねん!」

 

との理由で医学校の予算を全額削減したためです。

 

そう、さきほどの東京の公立医学校が前身となった東大理3の医学部があったから、県内初の医学校はなくなってしまったのです・・・

このころから?東京の後背地としての埼玉が始まっていたわけですな・・・

 

結局医学校は25人の卒業生を出しただけで終わってしまいました。

 

 

その後埼玉に医大はなかなかできず

話はだいぶさかのぼってしまいますが、こうしたこともあってか、埼玉県にはなかなか医学部ができませんでした。

埼玉唯一の国立大学である埼玉大学にも医学部をつくる話があったようですが、諸事情でうまくいかなかったようです。

 

 

1970年代の一県一医大構想で、医学校の廃校から83年の時を経て、ようやく医学部を併設する埼玉医科大学が設けられました。

こちらが現在でも、埼玉唯一の医学部の座を保っています。

 

自治医大や獨協医大など、他の都道府県の大学病院がある埼玉ですが、県発の医学部がなかなか生まれないのも、ああいった事情があるからなのかもしれないですね・・・。

 

 

養蚕業の発展に貢献

そして白根は埼玉の産業の発展にも貢献!

それも、中央政府からペナルティを食らってまでもです

身を呈して産業の発展に努めるとは・・・

どういうことなのか、見ていきましょう

 

 

自由に生産できなかったお蚕様

 

 

ご存知の方もいらっしゃるとは思いますが、江戸時代は専売制で、米以外の作物の生産が禁じられていました。

ですが、お蚕様の養蚕やお茶については、県内でも多く生産され、多く輸出されていました。

 

 

明治政府になってからも依然として養蚕は盛んに行われていましたが、ヨーロッパからの輸入もあって、次第に大量生産が行われるようになり、それに伴って粗悪品が多く出回るようになりました。

このため、1870年当時の明治政府は特に養蚕業について取締りを強化しました。

 

 

秋には蚕を育てててはいけなかった

 


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そうして養蚕の規制を強化する明治政府は、春と夏以外蚕を育ててはいけないと規制線を張るまでに至りました。

つまり、秋には蚕を育ててはいけなかったのです。

 

 

ところがところが、県内のある農家が、当時同じく養蚕が盛んだった信州で、夏の間涼しいところに保管した蚕を買って飼育したところ・・・

 

 

秋には蚕糸がわんさかわんさか

 

これを知った近隣の名士が試験研究を行ったところ、やはりわんさかわんさか

 

しかし当時秋に蚕を飼うことはできなかった。

 

 

そこで彼は、世界遺産ともなった当時の富岡製糸場の工場長尾高惇忠の協力のもと、1886年に白根のもとに秋蚕飼育の嘆願書を出すに至りました。

 

 

禁じ手の手法を黙認

これを受けた白根は・・・

 

 

御法度であることは熟知しながらも、国益になることとこれを黙認して、中央政府に許可を求めるという行動に出ました。

やはり彼は後々の地域、そして国全体の発展ということを頭においていたわけですな

 

 

政府からペナルティも

しか~し!

世間はそう甘くはなかった

 

 

政府の役人たちはかんかんに怒り、ついには関係者に有罪判決を下し、富岡製糸場の工場長だった尾高は責任を取ってその職を辞したといいます。

 

 

当然秋蚕の飼育を推進する地元の名士に味方した白根自身にもペナルティが課せられ、半分の減俸を命じられたということです。

かわいそうに・・・

 

 

しかし1888年に秋蚕の飼育が解禁されると、晴れて白根らに課せられたペナルティは解けることとなりました。

ああよかった・・・

 

 

総評

人々の信頼を受けそれに応えた偉人

 

そんなわけで白根の功績を紹介してまいりましたが、

地租の件といい、養蚕の件といい、白根は人々の心情を理解し、その信頼に応えていったところが大きなポイントですね。

まさに、のぼうの城で出てきた成田長親のような感じです。

 

 

そして医学校や養蚕の件からもわかるように、県の発展に向けての努力や覚悟も惜しまなかった点も特筆されます。

 

 

長州生まれの白根を突き動かしたものとは?

 

 

生まれは埼玉ではないのに、ここまで埼玉のことを考えていた白根多助

その背後にあったものは、長州という明治政府の重鎮を多く輩出した場所の出身だからこそ俺が日本を、その土地を変えてやるという情熱だったのかもしれませんね

 

個人の意見なので、全くオフィシャルなものではありませんが・・・😅

 

 

これから大宮VS清水を控えていることもあり、多くの方がNACK5スタジアム大宮を訪れることになると思います。

入場開始になるまでまだ時間がありますので、どうかそんな白根の功績を頭に入れつつ、スタジアム前の石碑へ足を運んでみてはいかがでしょうか😊

 

 

それでは、NACK5スタジアム大宮でお会いしましょう!!💨

 

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