【愛と哀しみの埼玉の歴史】NACK5スタジアム大宮の前に石碑も!埼玉の発展に貢献した白根多助とは? 信頼編

お世話になっております。

 

さぁ、始まりました!
皆さんお待ちかね?の愛と哀しみの埼玉の歴史📔

 

今回はNACK5スタジアム大宮の前にある、あの石碑の人についてです!

 

 

大宮サポーターなら一度は見たことあるあの石碑!

 

9月の日差しが照りつける大宮公園
大体の大宮サポーターは池の前のこの小道からNACK5スタジアム大宮の1ゲートに向かわれるんじゃないかと思います🏟

中を入って行きます
日陰なだけに日中でも薄暗いですね

その途中に、邪魔な何やら立派な石碑があるのをいつも見かけられることでしょう。

これを過ぎると我らのホームNACK5スタジアム大宮の1ゲートです!
逆光でゴメン!

再びあの石碑の前へ
石碑の周りをさらに囲いが囲っている作りで、よほどの偉業を残した人なのだということが見て取れます。

 

石碑の横にはこんな説明文が。
なになに?
この石碑は埼玉県の第2代県令の白根多助のものと…
初耳だな👂
この白根多助という人、埼玉県の産業の発展や県民の福利増進に努力した人ということです
それはしらねぇな…😅

果たしてこの白根多助とは何者か、そしてどんな偉業を成し遂げたのか、いろいろ調べてみました!

 

実はなんと長州藩士!

 

こちらが、その白根多助のご尊顔です

板垣退助っぽいですね

 

Wikipediaによると、

白根は江戸幕府末期の1819年、当時の周防国吉敷郡吉敷村佐畑(現山口県山口市)で、長州藩士・太田直猷の七男として生まれました。

その後、白根兼清の養子となったということで、もともとは山口は長州藩士だったということですね。

そうして長州藩、さらには大坂藩に仕えたのち、1864年に長州藩に帰藩して以降、藩の会計を担当し、藩財政の維持に尽力したということです。

 

大政奉還を経て埼玉県令へ

そして1867年に大政奉還がなされると、時代は明治時代へ突入。

日本史の教科書とかでもこのあたりになると、覚えることが多くなり始めて、なんか嫌なところですよね😅

 

以前もお伝えしたように、このころになると廃藩置県がおこなわれるのですが、我が埼玉県は1871年11月14日に誕生(こちらも参照)

その際長州藩士として明治政府に仕えていた白根は、埼玉参事として、県知事の立場にあった県令を補佐する存在として埼玉の地に赴任しました。

 

そうして4年後の1875年、2代目の埼玉県令に就任することとなりました。

 

一般市民の立場に立って地価を策定

旧態依然とした年貢制度

 

江戸時代もそうでしたが、できたばかりの明治政府の財政基盤も田畑からの年貢が基本でした。

しかし土地や年貢の制度は、江戸時代のそれを引き継いだもので、不合理・不統一な面も多かったといいます。

 

このため、明治政府としてもこの是正に取り組み、まずは1872年に土地私有権を認めて、それまで禁じられていた土地の売買を解禁するとともに、地券を発行するようになりました。

 

翌年、地租改正条例が出され、いわゆる地租改正、すなわち新政府による年貢ができる耕地の測定が始まりました。

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年貢増大への不安が大きかった埼玉県

それでも埼玉県では、年貢制度が公平になっても、それに乗じて年貢の納税額が上がるのではないかという不安が高かったといいます。

そのため、区や村の代表に各家庭を回らせて新制度について周知に尽力したということです。

こうして、耕地反別の総計が従来の15%にアップしたといいます。

 

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そして地価の測定に

そうして測量が終わると、今度は地価の策定です。

これをもとに、各土地の年貢額が決まってきます。

 

策定の方法として2~30の村を連合して、その中で一定以上の基準にある村を模範村とみなして、その村の耕地に等級づけをしていって、それを各村に適用するといったものがありました。

 

しかし・・・、年貢額増大の不安が高かった埼玉の人々がそれには賛同せず、なかなか地価の策定がうまく進まなかったといいます。

 

 

しかし、県令白根多助は、こうした一般市民の事情を察知し、

 

「地租改正に対する人々の思いを察するに、これを喜ばしく思っていない人が多いと見受けられます。新しいものは嫌い、というだけでなく、税額が増加してたとえ飢饉にあったとしてもその負担額がのしかかってくるという思いがあるようです」

 

と、当時中央政府で実権を握っていた太政大臣三条実美にも直訴していたといいます。

 

このため、白根は民間の人望あるものを地租改正掛として登用し、主として彼らに地租改正を推進させていました。

一般市民と近い立場の人々を登用することで、一般市民の不安を軽減しようとしたのですね。

 

地租改正にあたって、明治政府は従来の地租を下回らないようにしろと各都道府県に命じていましたが、埼玉県では他県で見られたような暴動は起きなかったといいます。

やはり、白根の努力があってこそでしょうか。

 

こうして、地価に対する年貢の比率である地租は3%とされましたが、全国的な反対運動から1877年に2.5%に切り下げられました。

それでも江戸時代までの税制に比べると20%近く上がったといいます。

 

 

とまあ、まずは税制面でこの白根多助が行った施策について書かせていただきましたが、それ以外にも白根は県の産業や教育について、大きな歴史の一ページを刻んでいます。

それについては後程。。。

つづく

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